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維摩VS優波離

次に登場したのは、戒律を守ること天下一と言われた優波離。
釈迦は、優波離に維摩への見舞いをするように指示するけれど、この優波離も辞退すると言う。

優波離は嘆く。
「いやいや、私も皆と同じように、維摩さんに、コテンパンにされたのです」
そして、優波離は、その経緯を語り出す。

「昔の話なんですが、二人の比丘が戒律を破ったと言って、私を頼ってきたんです」
「何でも、釈迦師匠の前に出るのは怖ろしくてならない、そんな理由なんですけれどね」

「その二人の比丘が言うんです」
「私の悔恨みを解いてくださいとね、罪から免れさせてくださいと」

「そこで、私は戒律に沿って」
「たくさんの修行僧の前で懺悔をすべし、と勧めたのです」

「その時でした、あの維摩さんがやって来たのです」

「維摩さんが言うのには」

「優波離さん、あんたね、そんなことをさせたら、ますます二人の比丘を混乱させて罪が重くなるよ、苦しみが高まるよ」
「そんなことをさせないでね、何も言わないで、相談してきた二人に、あなたたちの罪はもう消えたよって言えばいいことさ」

罪というのは、そもそも、内にもなく、外にもなく、その中間にもない。
心も、内にも、外にも、また中間にもない。
全てが空であるならば、罪とて、人が中途半端な考えで作り出した妄想に過ぎない。
その行為一つを見ても、当人には罪、別人には善、また別人には無関係、とても実体があるものなどではない。
そえをあえて罪と言うのなら、その人やその行為に、ただ様々な因縁があって、心が汚れるから、その人も汚れて、たまたま罪を犯すに過ぎない。
心が浄められれば、人も浄められて、罪も消える。
そして、人は一生罪人でもなく、善人でもない、どちらかの状態が継続することもない。

二人の比丘も、優波離も、罪を実体視して、罪と言う実体があると錯覚した。
そして罪を消滅させるには、罰を受けることが必要であると、考え込んでいた。

あなたたちの中で
罪を犯したことのない者が
この女に、まず石を投げなさい

「姦通の女」ヨハネによる福音書第8章

姦通罪で捕らえられた女性をめぐり、イエスと律法学者たちが対決する場面がある。
旧約の律法では、姦通罪は石打ちの死刑。
判断を求められたイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言う。
すると年長者から始まり、一人また一人と立ち去り、誰も女に石を投げることができなかった。

人を裁く権利や資格をもつ者は、そもそも人間にはいない。
この世界には罪を犯したことのないものは一人もなく、自分の正しさを根拠に人を裁く権利や資格をもつ者は、誰もいない。
さらに一人の人が罪を犯すことになった背景にある因縁や社会的責任は、社会のすべての人に無いとは誰も言えない。

ただ単に規則、律法に基づいて、機械的に人を罰するだけでは、何の解決にもならない。
罪を犯すに至った背景を考えずに、根本的な解決などありえない。
本来は、無垢である人の心が、そうなってしまったのは何故かを考えなければならない。

そもそも、二人の比丘は、罪を認めて謝ろうと考え、優波離のところに出向いた時点で、その心から他者を害するような罪は消えている。
そうなると、優波離は、それを「罪は消えましたよ」と声をかけるだけで十分。
それを大勢の僧侶の前で謝らせる苦しみを与え、また大勢の僧侶は罪が消えた二人の罪を更に苦しませる罪を負うのではないか。

イエスと維摩、少々立脚点は異なるかもしれないけれど、実に近いことを言っているように思う。

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