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奇跡は起きない。それがウェルビーイング。

奇跡は起きない。

僕はそう思っている。そしてそれがウェルビーイングだと思っている。


僕が奇跡という言葉を聞くのはドキュメンタリー番組が多い。スポーツで勝てるはずもない相手に勝ったとき、生死を彷徨ったが生き永らえたときなどに使いたくなるようだ。

こんなとき、僕のひねくれ曲がった精神が拒否反応を示す。

「勝手に奇跡で済ますなよ。」


マイアミの軌跡、ドーハの軌跡(サッカー好きで恐縮です)、ラグビー日本代表が対南アフリカ戦で勝利などなど。スポーツの番狂わせは観ている者を熱くする。実況アナウンサーが奇跡だと絶叫する。だけど、選手たちは奇跡が起きたとは思っていないはずだ。

W杯であれば4年間、優勝するために努力をしてきた。相手が格上だろうが、過去50年間負け続けた相手だろうが、どの試合も勝利を目指して挑んでいる。最善を尽くし、偶然かもしれないチャンスを逃さないよう全神経を集中させるなんて当たり前にやっていて、それが成果に結びついたまでだ。


ほとんど前例のない難病の手術だって同じようなことが言えるはず。たまたま手術が成功したんじゃない。執刀医たちがチーム一丸となって、これまでの経験と知識を総動員して挑んだ結果、成果に結びついた。奇跡が起きただけではないのだ。

『奇跡が起きた』なんて他人が容易く言っていいわけない。


自分事でも「奇跡が起きた」とは思いたくない。仕事だったり、恋愛だったりで偶然に偶然が重なって奇跡的にうまくいくことがあるかもしれない。それは偶然でしかない。ただ、偶然を呼び込むために行動を起こしたことは間違いないはずだ。

奇跡は起きるべきではなくて、結果的に感じるべきだと今の僕は思う。試験の合格に向けて、あるいは、勝負の勝利に向けて努力を続けてきて、いざ本番を迎えて成果が出たとき、他人に「奇跡が起きたね。」なんて言われたくない。努力の結果、奇跡のように感じられる出来事になったんだ。もちろん、それを実力と思ってもらっても結構だ。


何か成果が出たときに『奇跡が起きた』と自分以外に要因があるかのように謙遜する必要はない。自分の努力が実ったんだと思うことがウェルビーイングではなかろうか。

努力が成果を手繰り寄せたと思うこと。それを奇跡と感じられるポジティブシンキング。それこそが幸せを掴むコツかもしれないし、豊かさの在処なのかもしれない。


#ウェルビーイングのために #日記 #エッセイ

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