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トイ・ストーリー4のラストにどうしても納得がいかない

先日、賛否両論と話題の「トイ・ストーリー4」をやっと観てきたんですが思ってたより(私の中で)物議をかもす内容で、なんだかもう観終わってから今までひたすら


私がウッディだったら、どうするのが正解だったのか


という世にも生産性のない疑問がずっと頭から離れず、なんかもうこのままだと「いやでもギャビー・ギャビーのことは...」「でもバズは...」などと架空のおもちゃの名前をブツブツ呟きながらうわの空で仕事をするマシーンとして1週間を過ごすことになりそうなので、日常生活に戻るためにも一旦トイ・ストーリー4への思いを全部noteにぶつけます!! よければどうぞお付き合いください!!



なお(私はあまりネタバレ記事好きでないのだけれど)今回は何もかもをムシしてネタバレ全開です!! 1ミクロンも気を使って書いてないので、観てない方は今すぐnoteを閉じて映画館へ直行してね!!


※あと、あらゆるピクサー関係者の方とそのファンの方のために先に宣言しておくとトイ・ストーリー4はめちゃくちゃ面白かった観る価値しかないし今までもこれからもずっと私はピクサー作品のことが大好きです!!(嘘じゃない)(本当に心から嘘じゃない)


※それから、私が観てきたのは吹替版なので、字幕版とセリフ違ったりするかもしれないしうろ覚えのところもありますが、そのへんはなんとなく察してください!! というより間違ってたら教えてください!!


※それから「トイ・ストーリー4まだ観てないよ」って人のために予告編も置いておきます。でも絶対このnote読む前に観た方いいと思う、普通にめっちゃ面白いので大丈夫です、ぜひ観てね!!


これで前置きは全部なのでいざ本題!!私がトイ・ストーリー4についていいたいことは2つだよ!!


1. ウッディとボーは本当に「迷子じゃなくなったのか」問題

2.  カーズ/クロスロード』とピクサーに思うこと



1. ウッディとボーは本当に「迷子じゃなくなったのか」問題


まず「映画は観たけど、あまり詳しく覚えてない」という方のために、ざっくりあらすじ&結末を説明すると


アンディのもとを離れて、ボニーのおもちゃになったウッディ達。でもボニーはウッディであまり遊んでくれず、ウッディは寂しい日々を送っていた。そんな中、ボニーの手作りおもちゃであるフォーキー起こしたトラブルが元で、ウッディは移動遊園地の近くに住むアンティーク人形ギャビー・ギャビーに目をつけられてしまう。ギャビー・ギャビーから逃げる途中、ウッディはかつての仲間ボー・ピープと再会する(中略)最終的にウッディは、ボニーのおもちゃであることを辞め、バズ達に別れを告げて、ボー・ピープとともに移動遊園地に残る決意をする。


という感じです。ボー・ピープは、かつてシリーズで主要キャラを努めていた女性で、元々はアンディの妹・モリーのおもちゃの人形ですね。めっちゃざっくりいうとヒロインです。



で、この映画ラストの「ウッディがボニーのおもちゃであることを辞め、バズ達に別れを告げて、ボー・ピープとともに移動遊園地に残る決意をする」とこが本作最大の賛否両論ポイントになっているわけですが



===

仲間達と別れて、一人残ることになったウッディについて


レックス:ウッディは「迷子のおもちゃ」になっちゃうの...?

バズ:いや、彼はもう「迷子」じゃなくなったんだよ


そして遠ざかっていくウッディ...

===



みたいなシーンがあるわけです。ついに自分の居場所を見つけたウッディとボー、移動遊園地の美しい明かりとバズの切ない表情、そして始まるエンドロール...



ここ自体は本当に綺麗で切ない名シーンなんですが、それでも言いたい。私はここで言いたいです。




いや本当に迷子じゃなくなったのか?


ということを。むしろめっちゃ迷子スタートしてるんじゃないのかと。ウッディとボー、これからこそ大変なんじゃないのかと。



まず(めちゃくちゃ詳細なネタバレになりますが)引っかかっているのが、ボーのところどころでの言動です。



・ウッディが(ボーの昔の持ち主である)モリーの思い出話をすると、ちょっとだけいやがる

・ボニーのおもちゃであることにこだわるウッディに「子どもはたくさんいるわ」と発言する

「乱暴な子もいるのよ」と言いながら砂場で子どもと遊んでいる



「子どもなんて」と言いながら仲良く遊んでいる様子、昔の思い出話を嫌がる様子。トイ・ストーリー・シリーズは個人的に本当にリスペクトしている作品だし、この比喩がまったく適切じゃないのもわかるんですが、ここであえてわかりやすく例えさせてもらうなら、なんていうか



元カレのことが全然忘れられない女の子



みたいだなと思いました、ボー・ピープ。めっちゃ引きずってる、めっちゃモリーに捨てられたこと引きずってるよ、ボー・ピープ...。しかも言うに事欠いて「子どもはたくさんいるわ」ってなんだ! いないよ!! その子は世界にその子しかいないと思うよ?!  作品が作品なら完全に悪役のセリフじゃないのかこれは?!




しかも、ウッディの方も気になります。積年の友であるバズに「ボニーは大丈夫だ」と言われ、ボーとともに遊園地に残ることを促されるウッディ。仲間たちと熱いハグをして、ボーの方に走り出す...





えっ?!



っていう感じでした。いや、わかる。バズの哀しい優しさも、たとえウッディが家に帰ってもおもちゃとして幸せになれない可能性の方が高いことも、ウッディがボニーのために出来ることがもうほとんどないことも、なんかもう切ないほどにわかるけれど




バズに言われるまで、ウッディが自分で決断しなかった



のが引っかかって仕方ない。「やり残したことがある」とか「ここでやりたいことを見つけた」とか「ボーと一緒にいたい」とか、なんでもいいから何か言ってよ! 付和雷同か! いやウッディ優しいから仲間を置いていけないとか言いづらいとか色々あったんだとは思うけど! でも大事な進退ぐらいは自力で決めて! なんで言われるがままなんだ!!!



しかも、遊園地に残ることを選んだ大きな理由のひとつに「ウッディとボーがお互いのことを好きだから」みたいなのがあると思うんですが




君たちは恋愛が救いになるタイプなのか!? 



いやそれならそれでいいんですけど、ウッディは子どもを守るのが何より好きなタイプだし、ボーも自力でガンガン道を切り開いていく負けん気の強いタイプだし、恋愛のために他のことをすんなり諦められるタイプにまったく二人とも見えないんだけど本当にこの先大丈夫なのか?!



そして、ボーがモリーに捨てられたことから完全には立ち直れてなさそうなこと、ウッディが消極的に遊園地に残ることを決めたことから考えると



ふたりとも本音では子どものおもちゃになりたいが、たぶん難しいのでお互いを理由に使ってスマートに諦めることにした


ように見えてしまうのは私だけなんでしょうか。 それって逃げではないのだろうか... というか居場所を見つけるってそういうことなのか?!  迷子じゃなくなっているのか本当に?! むしろモラトリアムの始まりなのでは?!



なんというか、恐ろしく言葉を選ばずに言うと「子どもに遊んでもらえなくなったおもちゃどうしの傷をなめ合い」というような気がしてしまって、これから二人がどれだけおもちゃを助けても、二人で楽しい時間を過ごしても、本当に欲しいものが「自分と遊んでくれる特別な子ども」である限り、どんどん虚しくなるだけなんじゃないのだろうか... いま諦めることが本当に二人にとって正解なのか... という気持ちになり、長いエンドロールを見ながら「私が...  私がウッディやボー・ピープだったらどうするだろう...」と考え込んでしまい、今このnoteを書くに至ります...


ただ、メッセージとして受け取れたのは「どんな生き方をしてもいい」「無理をせず、必要とされる場所を選んでもいい」ということで、強い優しさを感じるラストでもあると思いました。「子どもと遊ぶ以外にもおもちゃの幸せはあるんだよ」「幸せは多様だよ」っていうことなのかな。でも、それならそれでやっぱりどうしても納得いかない部分もあるので、これは次の章に譲ります。



2. カーズ/クロスロード』とピクサーに思うこと


観てる方は観ているかと思うんですが、過去にピクサーはカーズ・シリーズの3作目として『カーズ/クロスロード』という作品を作っています。



予告編を観ればわかる通り、描かれているテーマは『トイ・ストーリー4』とほとんど同じ。つまりどちらも


かつてリーダーを努めていた主人公が、年月を経てトップを取れなくなった時どうするのか


を描いています。



どちらも子ども向けとは思えないシビアなテーマなんですけど、クロスロードの方はむしろ見終わった後「年をとることも悪くないのかな」と思えたし、個人的にはスッキリした気持ちで主人公・マックィーンを見送ることができました。で、この違いは何かというと



ウッディに明確な新しい夢はないけど、マックィーンには新しい夢がある



というところなんじゃないかと思う。超シンプルに。



ここから後は若干カーズの方のネタバレにもなるので、観てない方は飛ばしてもらえればと思うんですが、カーズの主人公・マックィーンとトイ・ストーリーの主人公・ウッディで明確に違うなと思うのは



■マックィーン

トップを取れない自分を受け入れた上で、諦めずに努力し、まだレースを続けることを決意した
後進を育てることにも新しい夢を見出している



■ウッディ

子どもに愛されないことを受け入れた上で、諦め、別の道を選んだ
新しくやりたいことは、本人の口からは語られていない



という点で、なんというかマックイーンは最終的にめっちゃ前向きなんですね。若いレーサーに煽られながらも必死に練習してるし、年には勝てないってわかると後進を育てる決意をする。

でも最後は「いつまでレースをやるかは自分が決めることだ」と言って諦めない道を選ぶ。自分が本当に欲しいもの(=自分で引き際を決めること)がわかってるし、プライドを捨ててそれを口に出せる強さもある。新しいことにもチャレンジしてるし、なんかもう太陽。太陽みたいなウルトラポジティブ!!



逆にウッディの方は、ボニーの気を引くための努力もほとんどしていないし(してたけど描かなかっただけなのかもしれないが)、最後の最後まで子どもに愛されることに微妙な気持ちを残したまま、プライドを取ってスマートに諦めることを決意。

ギャビー・ギャビーを助けることで「自分が犠牲になって、他の恵まれないおもちゃを救う」ことに興味が出たようではあるものの、明確に「やりたい」って言えるほどではないように見える。消極的。なんだかすべてにおいて消極的!!




で、別にこれは「マックィーンの方が好き!ウッディはウジウジしてる!」とか全然そういう話じゃなくて、ただの一人のファンとして、ピクサーに思うことが




なんでウッディのラストを、マックィーンみたいにしてあげられなかったの?



ということです。いや言っても仕方ないんですが!!!



ウッディとマックイーンで取り巻く環境は違うけど、同じラストでもウッディが「子ども部屋では出来ない新しい夢」を見つけられるラストでも良かったんじゃなかったのか。


てか、そもそもボー・ピープが「世界を見て回るチャンスよ!」って大喜びで言ってた話もどうなったんだ(中盤けっこう騒いでたのに?!)


ラストで私達が見たかったのは「他のおもちゃを助けてまわるウッディ達」じゃなくて「これから二人で世界を回ることに超わくわくしているウッディ達」じゃなかったのか?!

しかも、ウッディ達がラストでやっていた「他のおもちゃを助けること」って、結局子ども部屋でフォーキーを助けてたのと本質的に同じことだと思うし、それなら大切な仲間やボニーと別れて出ていく必要があったのか!?  

移動遊園地じゃないと出来ないこと、世界中を回ることに思いを馳せるウッディ達をなんで描いてあげられなかったんだ?! いやラストはラストで笑えて面白かったけど!!



なんというか、これは別にピクサーを批判したいわけではなくて(ていうかそんなことしたくない!!)むしろどんな時でも主人公に「諦める」という選択をほぼ取らせなかったピクサーが、なぜ今回だけはウッディに諦めることを許したのか、もっとなんとかして全員が救われるラストがあったんじゃなかったのか、諦めてんじゃねぇよ、ピクサーじゃないかよ!!と思ってしまって本当に納得いかなかった。というか、いまだに納得できていない。


あと、レビューで「ビターエンド」「哀しいラスト」っていうのを見かけたりもしたんですが、今までのピクサー作品でも状況だけ見ればビターエンドはあったと思うし(クロスロード、トイ・ストーリー3あたりも結構ビターエンドだったと思う)、それでも受け入れられたのは、その状況に主人公が納得していて、幸せそうで前向きだったからだと思う。


エンドロールのときの、なんとなくいま出来ること(=他のおもちゃを助けること)に取り組んでいるウッディは見たくなかったし、たとえ遊園地に残る・仲間と別れるという結末が一緒になるんだったとしても、これからの世界にもっとわくわくしてるところを見せてくれてもよかったんじゃなかったのか。それにやっぱり、なんでマックィーンは救ったのに、ウッディは救ってあげなかったんだ... と思えてしまって、ピクサーじゃないかよ!!!と心の中で叫んでしまった。2回目ですが。



ただ、ここまで書いててあれなんですが、やっぱり3で完結できるところを、4を作ってくれたことは素直にすごく嬉しいし、欲を言えば私は5で、きちんと現状に前向きになっているウッディを見せて欲しいと思う。トイ・ストーリーとほぼ同じ年齢と時代を生きてきた身として、ちゃんと皆が幸せになっているところが見たいです。日本語で書いても届かないかもしれないけれど、一番の感想はそれでした。続編、心から待っています。


読んでいただき、ありがとうございます!