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【エッセイ】太宰治を読みながら山手線に乗る

 人生から新鮮味のようなものが薄れてきた。それは気のせいだろうか。こういうことを言うとすぐそれはあなたが悪いんですよ、と言うひともいるだろう。茨木のり子だったら言うだろう。自分の感受性くらい、自分で守れ、ばか者よ、と。しかし、ぼくはおもうのだ。そんなにいつまでも飽きずに毎日たのしく生きられるわけではない、と。
 ぼくは自分が悪かったからこういう人生を送るようになったのかもしれない。でも、実はぼくは発達障害なので、いろいろなことがうまくいかないという面もある。自分という乗り物が、例えるならば古いパソコンのようなものなのだ。それにしても、こういう話をするのにも飽きた。

 ぼくは、最近はバイトの休憩時間に休憩スペースで短歌をつくっている。カーテンと黄色い壁に囲まれた狭い一角に机とパイプ椅子があって、そこで短歌をつくっている。セブンイレブンで買ったホットコーヒーを啜りながらメモ帳に手書きで文字を書く。ぼくの短歌は退屈な短歌だ。ぼくの短歌は散文に近い。詩的飛躍があまりない。素朴な短歌だ。そういう自分をどうにかしたいとおもう。でも、どうにもならない。

 ぼくは自虐的に自分のことをおじさんと呼ぶこともあるし、実際のところ、かなりおじさんっぽくなってはいるけれども、まだまだ若い部分もある。ピチピチしている感覚がある。鏡の自分を見ても、まだそこまでじゃないな、とおもう。髪の毛がクセ毛でクルクルしていて、丸メガネをかけたぼくには子どもっぽい雰囲気がある。まだシワやシミがそこまで目立つかんじでもない。ぼくは青春コンプレックスをこじらせた子どもおじさんなんだ。
 ぼくは若い頃は対人恐怖症だった。そのお陰で青春時代をたのしめなかった。ぼくはひねくれた若者だったが、若いときはひねくれている場合ではない。それが、おじさんになってからの感慨だ。若者にはひねくれている時間はない。ひねくれているうちにおじさんになってしまうからだ。

 最近は記憶力が衰えてきたのか、こうやって文章を書こうにも、そのネタとなるここ数日の記憶がもう薄れていて、あんまり書くことがないな、とおもってしまう。こんな文章は自分で書いていて退屈だ。
 最近は毎日、YouTubeで匿名掲示板のまとめ動画を見ていて、だいたいが結婚できなかったひとたちがひたすら愚痴り、互いを罵り合い、孤独死を恐怖する、みたいなかんじの内容だった。なんか、そういう動画を見るようになってしまった自分は、あきらかになにか落ちぶれたような感覚がある。若い頃はもっとプライドがあったので、そういう人間の負の部分の吹き溜まりみたいな匿名掲示板になんか近づかなかった。なぜ、そんな風になってしまったのか。
 人生はつらい。ぼくはいったいなにが不満なのか。

 最近は太宰治の短編集『走れメロス』を読んでいる。『富嶽百景』、『女生徒』、『駆込み訴え』、『走れメロス』辺りは名言、名文が一段落ごとに出てくるようなすごい小説だった。
 そうおもって、少し読書感想文のようなものを書こうかとおもって、書いてはみたものの、なんとなくつまらないから消してしまった。
 それにぼくは高校生くらいのときに太宰治にはまっていて、あの新潮文庫の黒い背表紙の文庫本を集めていて、いまも本棚にしまってあるんだけれど、あまりにも何度も読みすぎて、飽きた、という面もある。

 きょうは公休日だった。それで、メガネ屋さんに行ってきた。このメガネ屋さんは、元友だちに紹介されたメガネ屋さんだ。ぼくの家からは電車を乗り継いで一時間くらいかかるので遠い。
 眼科で新しいメガネの処方箋をもらって、その処方箋をどこのメガネ屋さんに持って行くか悩んだ。はっきり言って、ぼくのような貧乏人にはそのメガネ屋さんは良すぎるとおもう。だから、もっとチェーン店のようなメガネ屋さんで、それなりのフレームにしてもらうのがいいのだろうともおもっていた。でも、いまかけている丸メガネをつくるのにすでに四万円くらいかかっているので、このフレームを使い倒してやりたいという気持ちがあった。そういう理由で今回は近所のチェーン店よりも、遠いメガネ屋さんまで行くことにした。もしかすると、元友だちにバッタリ会うかもしれない。

 一時間、電車を乗り継いでメガネ屋さんに行く。その間も太宰治の『東京八景』を読んでいた。又吉直樹に『東京百景』というエッセイ集があるけれど、それはこの太宰治の『東京八景』へのオマージュだ。
 地方から東京に出てくるひとたちが東京に憧れる気持ちには憧れる。夢があるとおもう。ロックやポップスにも、そういう風に地方から東京に出てきたひとたちが東京をテーマにつくった名曲がたくさんある。くるりの『東京』などがとくに有名だ。
 ぼくはこう見えて、実は東京生まれなので、そういう切実な気持ちを東京にたいして抱いたことはない。ぼくは新宿で生まれたので、ど真ん中のシティーボーイだ。ずいぶんボサッとしたシティーボーイだとおもう。育ったのは郊外の街だ。

 こんな風にして、いつまでもインターネットに駄文を書き連ねていてもなににもならない。ただ、恥ずかしいだけだとおもう。ぼくの両親はこのnoteのことを知らないけれど、知ったら恥ずかしいとおもうとおもう。でも、それは世代の違いなのかもしれない。ぼくたちはインターネット黎明期を生きた世代だ。

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