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【エッセイ】ぼくのなかの寂しい部分

 カウンセリングで寂しいという悩みについて話した。ぼくは、自分の寂しさをひとにどうにかしてもらいたいとおもうと、それはうまくいかない場合が多くて、関係がこじれる気がした。だから、自分でどうにかするしかない。でも、そのやり方がわからない。そう話したら、そのことは無視されて、寂しさは人間付き合いのなかで解消されるものだというような流れの話になった。やはりそうなのだろうか。寂しいひとはその寂しさを自分でなんとかしようとする場合があるけれど、そんなの無理なのだろうか。
 カウンセラーさんは「熊野さんのその寂しさをかんじている部分」というような言い方をした。その日のカウンセリングでは強い感情が湧いていて、カウンセラーだったら、そういう感情をかんじるのではないかとおもった。強い寂しさがぼくから発散されている。いつになく濃いカウンセリングだった。ありがとうございました、それではまた、という風にカウンセラーさんと別れて、部屋を出る。そういうとき、ぼくのカウンセラーさんはすこしぎこちない。もしかすると、ぼくは嫌われているのかもしれない。

 カウンセリングの後は先生に診察してもらった。そのとき、先生が「落ち込んでいる?」と聞いてきたので、ぼくはすぐに「落ち込んでいません」と答えた。でも、その答え方が自分では強すぎた気がしたので、もしかしたら落ち込んでいたのかもしれない。そういえば、先生は、前回は「疲れている?」と聞いてきた気がする。よくメンタルクリニックの先生が、患者の話を聞いてくれないという話を聞くけれど、たぶん、医者は患者の話すこと以上に、こちらの表情やまとっている空気を観察しているのだという気がする。そして、きょうのぼくは先生には落ち込んでいるような風に見えたのかもしれない。

 最近は、自分の人生を振り返って、子どもの頃の思い出などを回想することにはまっている。ぼくはいままで、未来のことしか考えてこなかった。それは若かったということもあるし、そういう性格なのだろう。よく考えると、未来の計画を立てるのもたのしいけれど、過去だって負けずに豊かな広がりがある。ぼくは、自分のことが嫌いな時期が長かったし、振り返るとすぐに恥ずかしい思い出、黒歴史がよみがえってくるので、なかなか昔を振り返れなかった。でも、去年くらいから、自分の惨めな思い出が、角度を変えるとおかしい思い出になることに気がついた。恥ずかしい思い出ほど笑えるという気がする。
 ぼくの仕事は単純作業なので、作業中に昔のことをおもいだしていることが増えた。もちろん、仕事中は仕事に集中した方がいい。それなのに、こんな風に昔のことばかりおもいかえしているのはよくないことだ。
 この前は、まだ四~五歳だった頃、住んでいた団地の近所のおねえさん(と言っても小学生くらい)にバレンタインのチョコレートをもらった思い出がよみがえってきた。そのとき、たしかお母さんは留守にしていて、おねえさんが訪ねて来て、ぼくにチョコレートをくれたのでそれを食べた。子どもには多い量だったとおもうけれど、ぜんぶ食べてしまったので、鼻血が出た。お母さんが帰ってきて、「ぜんぶ食べちゃったの」と言った気がする。ぼくはティッシュを鼻に詰めて、部屋に仰向けに寝ていた気がする。そのときの、部屋の空気のかんじがおもいだされて、人生の初期にしかかんじられない空気感だとおもった。そういう風に思い出に浸っていたら涙が流れた。
これは、もう三十年以上前の話なのだ。年代で言えば九十年代のはじめ辺りだろう。信じられないような気がする。
 すごくつらい出来事があったり、人生に敗れたりした後の人物がふぬけのようになって、いつも玄関の前に椅子を出してそれに座り、通りを見ているんだけれど、その眼は通りを見ているようで見ていなくて、心のなかの風景を見ている。昔のことをおもいだしている。そういう味のある人生の敗者はかっこいいな、とおもってしまう。いまの時代、流行らないのはわかるけれど、ぼくもそういうかんじになったらかっこいいかもしれない。でも、ぼくにはとくになにかドラマチックな過去があるわけではないから無理かもしれない。

 フェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』を読んでいた。『不穏の書』はペソアの分身である、ソアレスが書いたという設定になっている。
 ペソアには異名という別人格があって、別人格はペソアとは別の人生を歩んでいる別の人間なのだという設定なのだ。そういう異名がペソアには七十くらいあったそうだ。イマジナリーフレンドに近いのかもしれない。
 いや、そんなややこしいことをしている奴がいるのか、とおもう。ペンネームで別人になりすます、くらいなら凡人であるぼくにも理解できるけれど、異名という発想は異常だし、おもいついたとしても誰もそんなことをしようとはおもわないような気がする。ぼくがよく知らないだけかもしれないけれど、そんな人生を生きたひとはペソアくらいだ。
 そのペソアの異名であるソアレスが書いた『不穏の書』はとくに好きな本だった。ソアレスは夢と現実を両方とも同じように生きている。だから、現実には存在したことのない風景や、人物のことを考えて、それらが実際には存在しないという理由でかなしんだりする。ソアレスはそういう複雑な魂を持っている。はっきり言って、ぼくには言っていることの半分もよくわからない。でも、いつも『不穏の書』には惹きつけられてきた。
 ぼくはペソアからは人間の魂がとても複雑で迷宮のようにもなり得ることを学んだ。

 また、小説を書こうとおもった。でも、どうやって書いたらいいのかわからない。Amazonでこうすれば簡単に誰でも小説が書けるといううたい文句の新書に惹きつけられる。まあ、でもたぶんその本を読んでも書けるようにはならないだろう。小説は、小説を書こうとする小説家の格闘そのものが小説になる、というような面があるとかんじる。だから、近道はないのではないだろうか。そういう風に時間をかけて試行錯誤しながら、なにかをやりたい時期なのかもしれない。

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