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地を駆ける夕陽【5】

 小さな組織の嫌なところは、世間話のように交わした冗談交じりの雑談が、それぞれの勝手な妄想で大きく尾ヒレを成長させ、それさえも水族館の珍しい魚のように群がって鑑賞し楽しむ癖があるところだ。
 私の隣デスクに座る、歳は二つ下だが入社時から経理担当の、仕事面では先輩にあたる服装も化粧も若い女性の同僚に、橋本さん、昨日のデートどこ行ったんですか? と、きゃいきゃい仕事の依頼の合間を縫うように尋ねられる。
 早く上がりたいから、「ごめんなさい、今日はちょっと」、と昨日軽くついた自分の言い訳がここで仇になるのか。
「渋谷の道玄坂にあるバルに行きましたよ。結構ワインとか料理も手ごろな値段でおいしかったですよ」
「ええーいいなあ、橋本さんたち、結構頻繁に会ってますよね、ホント羨ましい! 私ももう二年付き合ってる彼氏とそろそろゴールインしたくってえ、プロポーズしてくれないかなあって感じなんですよねえ。あ、橋本さんたちはそのへんどうなんですか?」
 幼さと媚びと無知と好奇心が入り混じった不愉快な言説を左耳に受け止めながら、自分が自分を守るために、呼吸とともに体の内側にある大切ななにか、魂のようなものを吐き出しているような錯覚に陥る。
 どうしよう、どんどんずれる。ほんとうに、この子の話どうでもいい。今すぐに黙ってくれやしないだろうか。どうもこうも、終わりましたので、この先なんか、ないんです。
 左耳の反応が急に途絶える。頭の中で思っているだけのつもりだったのに、何のオブラートにも包まずぶっきらぼうに最後の台詞を口に出してしまったらしい。まつエクのせいでお人形のように大きな彼女の瞳がそう告げる。
 そのぱちくりとした目線に耐えられず、とっさに、すみません、お手洗いに行ってきますね、と鞄からミニタオルのハンカチを取り出し、そそくさと席を立った。
 早く冷静にならなければ。これ以上ずれてはいけない。
 美月は自分以外誰もいない女子トイレの洗面台の前で、落ち着け、何でもない、働け、どうってことのないただの日常だ、と自分の手を洗い続けた。まるで自分の手に言い聞かせるみたいに。
 水の冷たさを指先に感じるようになって、ようやく蛇口を締める。ハンカチで手を拭きながら、鏡に映る自分の眉間がいつもより気難しそうに見えたので、一度きつく目を閉じ、いつもの自分の顔を思い出して、ゆっくりと目を開いた。
 ごめんなさい、さっき私、何の配慮もないひどい言い方しちゃったかも。どうか気にしないでくださいね。ところで、さきほどお伺いしたこの件なんですが……。
 左隣りの彼女にかける最初のきっかけを懸命に用意しながら、深呼吸して女子トイレ扉の取手を握る。
 一歩一歩あの机に戻る覚悟を作り上げながら廊下を進み、経理部のドアを開けようとしたところで、部長の野太い傍若無人な大声が脳内に響いた。

「大の大人がさあ、いい歳してまともに結婚とかできないのって、やっぱりその人の人格に難ありなのかなあ、とか勘ぐっちゃうよねえ」

 部長の言葉は本当に強かった。誰のことも考えていないという点において。そして美月は、その言葉から生じた突風に、ドアと自分だけが真っ白い異空間に飛ばされてしまったと思った。
 昨日見たスポーツ用品店の床くらいの白さ。でも、ここにはその床に色を加える何かがどこにも見当たらない。始点も終点もないから、私とドアが位置するのは真ん中なのか隅っこなのかも全く見当がつかないのだ。下から照り返してくる白い反射は、明るすぎてもはや白ではなく光となり、眩しさに目を瞑るとこれは白さを装った闇だったのだと気付く。
 こんなの、こんなふうに責められたら、もう私が白さに溶けるしか方法がないじゃないか。

 そう思ったとたん、美月は一歩ずつ積み上げていたあるべき姿も配慮もすべてかなぐり投げ捨てていた。
 大きな音を立てるようにドアを開け、無言で自分のデスク目掛け体の軸を一切揺らさずまっすぐに近づく。それはパンプスのヒール音がわざと周囲に響くような歩き方と速さだった。机内側の床に置いていた鞄、椅子の背もたれに掛けていた上着を乱暴につかみ、相変わらず目をこぼしそうに見開いている同僚と、さすがにまずいと思ったのか口をへの字に曲げている部長を横目に、瞬きなんて必要ないくらいの意志の強さで、美月はオフィスを後にした。

 会社から最寄りの駅に向かうまでの横断歩道の信号は無視した。
 坂道でも歩く速度は変わらなかった。
 ヒールの音がますます甲高い悲鳴をあげるかの如く、無機質なオフィス街にこだまする。群生するオフィスビルのガラスやコンクリート、アスファルトを転々と蹴り上げるように昇り、四角い空に吸い込まれる。
 向かい風を邪魔だと払いのけるように切り付けて歩きながら、忘れていた瞬きをして、美月はようやく、自分が泣いていることに気づいた。
 裸眼で歩けば都会の景色も少しは綺麗に映るのかもしれないと思ってきたが、涙に視界を滲ませれば、それもまた幻想的で美しい眺めだった。
 何十年か先、海域に沈んだこの街の水底に私がいて、太陽が幾筋もの光となって揺蕩いながら降り注ぐ。水に呑み込まれた錆びた信号機も車も建物も、海藻の庭に設えたアスレチックのようだ。その隙間の小路を、こんなものなんの役にも立たなかった、遠い昔話、と言わんばかりの体で魚たちが自在に泳いでいる。浮力に身を任せれば、さらさらと零れる砂時計の砂の一粒になったようで、自分もまた、大きな時間の中の、たった一つの結晶だったのだと素直にそう思える。
 頬の丘陵に道を残しながら雫となって涙が落ち、美月は水底から水面を目指して上昇した。眼前には誰のためにともいわず祈りを落としていた太陽と、どこまでも広がる真夏の空があった。
 涙のレンズが私に見せた心象風景は、幻想ではなく、遠い過去の思い出の一部を再現前化していたのではないかと静かに思う。太陽きらめく夏の海を、私はずっと直視することができず、しかし、取り戻すことを渇望していたのかもしれないとようやく思い至る。

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