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だから僕は地域通貨をやめた

この記事は、僕の失敗の軌跡と素人の戯言である。


実は3ヶ月程前、地域コミュニティ通貨をつくろうと思ったことがある。
その名も『39Coin(サクコイン)』
"Thank you!"の意味と僕が住む地域の地名"佐久"をもじって作ろうとした地域コミュニティ通貨である。

でも、僕はもう、この通貨をつくることをやめてしまったのである…。


ちなみに…
この記事でいう『地域コミュニティ通貨』とは
"地域のコミュニティを活性化させるツールの役割を持つ地域独自の通貨"
のことである。

39Coinの説明ページ切り抜き

僕らが考えた39Coinとは

『39Coin』は神奈川県の藤野地域でいまも流通している地域通貨「よろづ屋」を参考に考案した地域コミュニティ通貨である。

『39Coin』の特徴として考えていたのは主に以下の3つ

  • 日本円のような法定通貨としての価値は持たない

  • 地域住民同士を繋ぐコミュニティツールとしての役割

  • 運営はするがなるべく管理はしない

ちなみに、法定通貨としての価値を持たせたくなかった理由の1つは、法定通貨と同等の価値を持たせた地域通貨は廃れているケースが多かったからである。

なぜつくるのをやめたのか

結論から言うと「ほぼ無価値な通貨が欲しいなんて人いないよね。」
と思ったからである。
欲しい人がいないと思うものをつくる気になれなかった。
ただそれだけである。

なぜ無価値な通貨なのか

39Coinは日本円のような法定通貨としての価値を持たない通貨だったからである。
換金も出来ない。商品と交換も出来ない。割引券にもならない。
価値の無い通貨。無価値なのである。

通貨とは貨幣であり、貨幣とはモノやサービスの対価なのである。
しかし、法定通貨としての価値を持たない通貨ということはつまり、誰かに何かをGiveしてあげた見返りが無価値なものとして返ってくるということになる。
もう少し詳しく説明する。

道を尋ねて来た人のイメージ

例えば、道ばたで駅までの道を尋ねて来た人と出会ったとする。
その人に道案内をしてあげた。
そうしたら、道を尋ねて来た人が「これ、案内してくれたお礼です」と言って道に落ちていた石ころを渡してきた。
通貨が無価値であるということは、道案内をしてあげた見返りとして無価値な石ころを貰う行為とイコールなのである。

お礼と言われて貰った石ころは持ち帰るわけにもいかないし、その場で捨てるわけにもいかず、気を遣って少し離れた場所に捨てざるをえない。
そんな手間が必要ならいっそ「何も貰わない方がましだ」と大半の人が思うだろう。
まさにこの石ころのような貰わない方がまし的な存在が、僕が考えていた無価値な地域コミュニティ通貨だったのである。

道案内のお礼に貰った石ころ(イメージ)

さらに、無価値な通貨=欲しい人がいないという事でもある。
欲しい人がいないということはその通貨は需要が無いので流通しないということでもある。
地域コミュニティ通貨は、日本円のような法定通貨とは一線を画してはいるものの「通貨」であることには違いない。
通貨なのであれば流通しなければ意味がないのである。
もし流通しないのであれば、本当に石ころのようにただのガラクタになってしまう。
僕はこの"通貨であるにも関わらず通貨としての価値や意味を持たない"という事に大きな矛盾を感じてしまったのである。

誰もが皆、見返りを求めて誰かにGiveするわけではないという意見があることもわかっている。
見返りを求めて道案内する人は少ないだろうし、「価値が無くても通貨が欲しい!」というコレクター気質の人も何人かはいるかもしれない。
クレヨンしんちゃんに出てくるぼーちゃんみたいに石ころのコレクターだって少なからずいるはずだ。

けれど、何事にも見返りを求めないボランティア精神に溢れた人は総人口のほんの数パーセントである。
さらに、特定の狭い地域にボランティア精神に溢れたGiverやコレクターが溢れているかというとそうではないだろう。
10万人規模のまちなら1,000人もいないかもしれない。
もしかしたら100人にも満たないかもしれない。

僕が目指すのは地域全体が一体となれるツールとしてのコミュニティ通貨であって、一部のGiverやコレクターだけを集めた限定的なコミュニティ通貨がつくりたかったわけではない。
誰もが気軽に参加できるコミュニティでなければつくる意味がないのだ。
だから、僕は地域コミュニティ通貨をつくるのをやめた。

スキルが無価値化する

さらに、法定通貨としての価値をほとんど持たない地域コミュニティ通貨をつくろうと考えた場合、もう一つ大きな課題に直面する。

スキルが無価値化するのである。

例えば、普段から似顔絵のイラストを仕事として受けている人がいたとする。
仕事として受けているので、もちろん報酬としてお金を貰っている。
そんなイラストレーターが、地域コミュニティ通貨に参加し、似顔絵のイラストの依頼を受けてしまった場合、イラストを描くことができるというスキルが無価値化されてしまうのである。

なぜなら、イラストを描いてあげた見返りが無価値な通貨であるからである。
前述にもある通り、通貨は貨幣であり、貨幣はモノやサービスの対価なのである。
イラストを描いてあげるというサービスを提供する見返りに無価値な通貨を貰うということは、イラストを描くというサービスの価値が無価値であることを表してしまうのである。
本来、お金を貰えるはずのスキルが無価値になってしまうのである。

これは深刻な課題である。
あなたの現在の仕事に照らし合わせて考えてみて欲しい。
「来月の給料(報酬)はお金ではなく、石ころになりまーす!」
と言われるようなものなのである。
当然、石ころをいくら貰っても生活はできないので困る。

地域コミュニティ通貨はオワコンなのか

では、地域コミュニティ通貨で地域のコミュニティを活性化させるような仕組みはつくれないのかというとそうでもないかもしれない。
通貨に価値を持たせてしまえば良いのだ。
いわば、石ころに日本円と同等もしくはそれ以上の価値を持たせるのである。

石ころに価値があれば、似顔絵のイラストを描いた対価が石ころでもスキルの無価値化は起きない。
ただし、その価値のある石ころは隣町では使用できないので非常に使い勝手の悪い法定通貨もどきが出来上がる。
使える場所は一部の限定的な場所のみで、法定通貨とほぼ同等の価値を持つ通貨。
これだと、商店街の商品券と何ら変わらない地域コミュニティ通貨になってしまう。
これでは何のための地域コミュニティ通貨なのか分からなくなってしまう。

やはり地域コミュニティ通貨はオワコンなのか?
でも、なんとなくイケてるまちはどこも地域コミュニティ通貨が流行っているイメージがある。
実は僕が知らない見えない価値が地域コミュニティ通貨にはまだまだあるのかもしれない。

ただ、39Coinが参考にした神奈川県藤野の『よろづ屋』という通貨も、住民同士のやりとりで一番多いのは「モノ譲ります、モノ譲ってください」系の書き込みだという。
譲ります譲ってください系の書き込みが多いということは「モノが欲しい、モノを譲りたい」という目的を持つ層が多いということ。
でもそれってわざわざ地域コミュニティ通貨を介してやりとりする必要ないんじゃ?
チャットもしくは掲示板さえあれば成り立つのでは?
と思ってしまうのは気のせいだろうか。

※よろづ屋を批判したいわけではないので悪しからず。

地域コミュニティ通貨の代替案

もしかしたら地域コミュニティ通貨がオワコンかもしれないので、自分なりに代替案を考えてみた。
ここでいう代替案とは地域のコミュニティを活性化させるための仕組みとしての代替案である。

通貨を介すと価値がどうだのこうだのという話になりがちだという事がわかったので、見返りが通貨以外の仕組みをつくったらどうだろうか。
つまりは物々交換システムである。

ただし、物々交換と言ってもモノとモノの交換だけでなく、スキルとモノの交換もOK。
スキルとスキルの交換もOKな仕組みである。

見返り(お礼)が通貨以外のコミュニティイメージ図

これは机上の空論なので、この仕組みにも取引の複雑化をはじめ、いくつか課題が眠っていそうだが、少なくともスキルの無価値化は起きない。
なぜなら、似顔絵のイラストを描く見返りがお米10kgというちゃんと価値のあるものだからだ。

もしも、イラストを描く人がご飯派じゃなくてパン派なら、お礼を冷凍パンセットに変えれば良い。
ご飯もパンもいらない。酒が欲しい。という事であれば依頼は断って、お礼に酒を提供してくれる人を募集すれば良い。という仕組みである。

さらに、単純にGiveしたいだけのボランティア精神に溢れた人もこの仕組みに組み込むことができる。
なぜなら、この仕組みは困っている人とそれを助けられる人をマッチングする仕組みも兼ねているからだ。

この仕組みを利用して地域住民同士で取引がたくさん行われれば自然とコミュニティが活性化するのでは?
取引にはお金のやりとりが発生しないので、依頼する側も依頼される側も変ないやらしさがなく、自然な形で地域住民同士が関わり合いを持てるのでは?

そんな期待を込めて、これからも素人目線で地域コミュニティについて細々と考えていけたらと思う。

P.S.
石ころはあくまで例であり、石ころに対して特別な感情や恨みは1ミリも持っていないのであしからず。


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