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【エッセイ】怒りやすい私は優しい

私はキレやすい男だった。小さな事でもキレるし良く人を殴りたくなる。実際に暴力を振るう事はないが、下を向いて妄想の中で相手を千枚おろしにしているか、後の未来で始末する算段を考察してる。

そのせいか独り言をブツブツ言ってることが多かった。


しかし最近、私は自分がこの世で最も優しい存在ではないかと考えるようになった。私の怒りは不特定多数の人々や、社会のシステム、道徳的概念に対して向けられているのだ。個人に対しては、ほとんど怒りを感じることはない。

例えば、街を歩いていて意図的に肩をぶつけられたとしても、私は社会全体を恨む。刀で斬りつけることを禁じる法律や、狭い道を作った行政に。また、衝突しただけで相手を脅したり攻撃したりすると心象が悪くなるという価値観や法制度に対して怒りを感じるのだ。

だが、その怒りを他の弱い者にぶつけたりはしない。怒りを溜め込み、そのうち必要に迫られたときに、すべての鬱憤をぶつける対象が現れるのを待つ。

本当に嫌いな人間への怒りは、その人が目の前で車に轢かれたら、満面の笑みで大笑いできるほど強い。しかし、そういう相手は大抵、私が手を下す前に不幸な運命に見舞われる。

当然、そこまで憎む相手には単なる暴力や嫌がらせでは満足できない。

だからこそ、私は実際にはめったに怒ることはなく、傷害や殺生に至ることもない。

裏を返せば、これは私が他人よりも優しいことを意味している。浄土真宗には「悪人正機説」という教えがある。すべての人間は、生きるために他の生命を犠牲にする。神の目から見れば、私たちは皆、同じくらいの罪を背負っているというのだ。

だからこそ、私は自分が怒りやすいことを悟り、それが実は人々に対する深い慈悲の表れではないかと考えたのだ。


本当に心から、自分より相手を思い、慈しむ感情が自分の中にある事を知った時に、初めて気付いた。

小さな事に苛立ちを感じやすかったのは、個人を恨まない優しさの現れだったのだと気付いた。


私に無礼を働く者を怒りはしない。そのものの仲間や家族。育った環境全てを恨み人類を滅ぼしたくなる。そんな過剰すぎる憤怒の心は、全て私の底知れぬ優しさの現れだったのだ。

だって、誰かを愛せる自分は、優しいに決まってる居るのだから♡

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