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「クラシックバレエ」の神様

●「クラシックバレエ」の話

わたしはかつて神の立つ場所に通い、そこから離れたことがある。
「クラシックバレエ」の話をする。

「クラシックバレエ」で認められている身体のゾーンはかなり限定されている。
また、世間一般の感覚で言うとおおいに狂った指導が行われている場合がある。
なぜそうなるのか。「クラシックバレエ」には、神がいるから。

神がいる。
美しいものと正しいものが同じで、そうではないものが明確になっている。
神の名の元に舞台に立つとき、人には「天空を目指さなければいけない」という使命が発生する。クラシックバレエの舞台に立つ人というのは、舞台に立つとき「天使」をやっているのである。

神の名の元に、お姫様にもねずみにも、花にも柳にも「ならなければならない」前提で場の倫理がつくられている。
「クラシックバレエ」の先生というものは、絶え間ない訓練(20年ぐらい~)の末に「神」の目を代行する存在なのである。神の名の元に20年真面目に訓練をやっていたら、いろいろと「そうなるよね」ということは起きる。

教会へ行って、初対面のシスターをつかまえて「十字架ってダサくない?」のような話をしにいく人は、マジで恥知らずの無礼なバカです。†家でやれ†。

「クラシックバレエ」を習っていたときに遭遇した状況をひとつ紹介する。

先生「その腕は!死にかけのカラス!!!!!愛らしい小鳥さんではない!!小鳥さんの腕は!!!!!!こう!!!!!!!カラスでいいのかあんたたち!!」
4歳児の集団「うっ…小鳥さんになりたいです!!」
先生「OK!!!!!!!!!腕を柔らかく使って!!!」
4歳児の集団「うっうっ」
先生「そんなお葬式みたいな顔をしている小鳥さんは、この舞台の筋書きに存在していない!!!笑え!!!あなたたちの強みは!!!!かわいらしさ!!!!」
4歳児の集団「うっうっ…にこ…」
先生「OK!!!かわいい小鳥さんねって言われるよ!!!ハイ次!!」

これを虐待に感じる人は少なくとも「クラシックバレエ」には向いていない。

こういうことなのである。
神と指導者がいるというのは、こういうことなのである。

「小鳥さんになりてえか」「応」「ならば従え」
「死にかけのカラスでいいのか」「否」「ならば従え」

こういうことなのである。
「死にかけのカラスOK」の場合、もちろん先生に従わなくてもよい。
「この腕はこのままの状態で“死にかけのカラス”ではない」とするのであれば、「クラシックバレエ」を辞めて、そう感じさせるための説得力を別途用意する必要がある。

「死にかけのカラスをクラシックバレエの文脈で美しく見せる」方法も当然あるだろうし、私はクラシックバレエの外にいる死にかけのカラスもかなりOK派なのだけれど、その時行われていたのは「愛らしい小鳥さんになる」ための指導であって、死にかけのカラスになるための指導ではない。

先生はめちゃくちゃ真面目に仕事をしている。
先生に言われたように動くことができれば、「クラシックバレエ」のルールの中、「より正しい」存在になることができる。できなければ、なれない。
神がいるとはそういうことなのだと思う。

「クラシックバレエ」に於いては「どれだけ自分の身体に付与されているノイズを除去できるのか」が、同一のものとされた「美醜と正誤」に深く関わる。

そら「クラシックバレエ」の神様しか知らない人は、体質に恵まれない限り摂食障害になると思います。当たり前だよ、そぎ落とされ鍛え抜かれた肉体を是とする神がそこにいる。有名なバレエ学校が三代前まで辿って体質調査してくれるという話を聞いたとき、私はかなり親切だと思った。あなたを愛さない神には、摂食障害になる前に見切りをつけて欲しい。

「クラシックバレエ」の神様に愛されないけどダンスをやりたいみたいな人は、解釈の余地のあるモダンに転向したりコンテンポラリーをやったり、少なくとも

①「神ってある程度の「都合」と「必要」で立つからイカれてはいる。イカれてはいるのだが、この神やその代理人は「美=場に於ける正しさ」を人に授けている。※まじでかけがえがない
②「しかし「クラシックバレエ」以外にも美や神は存在している」

という前提を持ちにいったほうがいい。恋か憎悪のどちらかで死ぬから。

「クラシックバレエ」の神様に認められないからといって死ぬ必要はない。
マジでない。「クラシックバレエ」の外にも神様はいる。
「美と正しさ」が同一視されていない世界線で暮らしている人も全然いる。
「美しく」なくてもいいし「正しく」なくてもいい。他人の用意した聖性に帰属しなくて大丈夫。どうしても帰属したい場合はちゃんと賞罰が明文化されている宗教に入ったほうがいい。

「クラシックバレエ」の神は、もともとまた別の神から認められない女性達に「美と正しさ」、つまり「説得力」を付与するために立ったものだと私は考えている。
そういう魂の救い方はある。付与されたいかどうかは別として。

ある宗教世界の中でどうしても自身の価値が認められない・絶え間ない毀損に遭っているとき、「美と正しさ」をあらたに構築して運用していこうとするのは、ごく自然なことだと思う。ていうかそれ以外の対抗手段って基本的には「なかった」んじゃないか。

これはあくまでわたしの知っている「クラシックバレエ」の話であって、それ以外のクラシックバレエの話ではない。

神様というものは概ね「美醜と正誤」を同一のものとし、「否定する」ことを仕事にしている。「それは汚穢です」「それは清浄です」と言うことを仕事にしている。
人生をかけてクラシックバレエをやっている、神の目を代行している人(先生)の話す「クラシックバレエ的に正しくない」という指導について、私は「クラシックバレエ的にはそうなんですね」と受け取ることができる。「クラシックバレエ」の話は、あらゆる「神の立つ場」の話に置換していけると思う。

私はクラシックバレエの神様に愛されていないので早々にそれを辞めたけれど、「クラシックバレエ」の神様が立つ場所ほどに「正解がはっきりしていて」、「正解を出せば美しくあることのできる」場所を、「体験のあるものとして」私は他に知らない。
私はろくな正解を出せないままその場を離れた人間だけれども、そのことは「クラシックバレエ」の神様を毀損する理由に全く足りない。(私を痛めつける理由にも足りない。)

自分を正しい・美しいということにはしてくれなかった、自分を愛してはいない「人の立てた神様」の中にも、本当にちゃんとしたものは「ある・いる」。そのことを人生の早い段階で知れたことは、かけがえのない財産だと思う。

「学校教育でまかり通っている謎ルールにまともな真善美と報酬が設定されているケースは少ない、取りにいかないとない。」という判断がしやすくてよかった。線を引いて、結界を作って、異化をやる営みがなぜ必要かといえば、そうしなければ救われない魂があるからだろう。舞台・ショー・作品。

私は「きちんと報酬を設定して見せてくれる」クラシックバレエの神様のことが好きだけれど、この世には私が「本当に嫌いです」と感じる神様だってもちろん存在している。「モラハラ恋愛テクニック」みたいな本の見せる神様とか、大学の飲みサーに棲む神様とか、「彼氏を萎えさせる下着」みたいな記事に棲む神様とか。だってその神様ってろくな報酬出してくれないし、美意識ガッタガタであんまりにも都合良すぎるんだもん。人を食いたいだけだろう、大量に。食われる人を増やしたいだけだろう、大量に。見下している存在を報酬に据えても、人は幸せになれない。

↑読んで楽しいバレエ漫画とバレエに片思いしている人の話

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