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当たり前は誰にとっての当たり前?

アメリカに渡ってからは、驚きの毎日で、日本の生活で培われてきた常識の概念がぶち壊されていく日々でした。

"日本だったらできる、やってくれるのにな”というようなことが続き、最初はそれがとてもストレスでした。

そんな中で出会ったある一人の女性。彼女は家族と韓国から移住し、私と同じ語学学校に通っていました。

最初はぶっきらぼうな印象でしたが、とても情に厚く、寮を引っ越すときも車を出してくれ、お礼を渡そうとする私の申し出を突っぱね、"私のやることは終わったから、あとは自分でがんばれー"と、颯爽と帰っていくようなさっぱりした方でした。

ある日、彼女の家でランチをすることになり、飲み物をとる際に冷蔵庫を開けてもいいかと彼女に確認したところ、韓国では勝手にあけるのが当たり前で、確認をすることは逆によくないことだと言われました。(お互いに疎い英語での会話なので、もしかしたら違う解釈になってしまっていた可能性もありますが。)

他者の物を勝手に詮索する行為が不躾とされる日本とは真逆の考えで、当時はとても驚いた記憶がありますが、このことがきっかけで、自分にとっての当たり前というのは、単に自分の世界の中だけでのことなんだと、すっきりもしました。

渡米後すぐはまだ様々な事への価値観などが定まっておらず、そのような時期に彼女と出会えたことで、物事でも人に関しても、先入観や固定概念に捉われることなく、自分の目で見たものを信じるという習慣が身に付きました。

そのおかげでバトラーにいる頃も、学校の友だちと同じくらいにご近所さんなどの友だちが多いような交友関係を築けていたし、想像もしていなかったような体験もたくさん経験できました。

その一方で、違うからしょうがないと、ストレス要因になりそうなことは早々にシャットアウトして自分の世界にこもりがちなクセもついてしまっているので、完全に遮断するのではなく、そこを尊重できるようになることが目下の目標です。

自分の世界では自身がルールなので、状況を俯瞰する必要もなく、結果、主観的思考に捉われてしまうことに繋がります。しかし、自身の成長のためには客観的思考が必要不可欠です。

例えば、"〜したい" などのような主観が先行してしまうと、自身も気づかないうちに、目指すべき目標の本質からズレていってしまうという事は多々あります。

それを防ぐためには、自分のことであっても客観的に捉えること。それを可能にするための手として、目標をノートなどに可視化して、日々それに添っての自己分析をする習慣付けなどが考えられますが、日常レベルまでの習慣付けはなかなか大変であり、ときとして客観的思考というものはとても刺さるものでもあります。

そんなときに助けてくれるのは周りの存在です。自分で振り返ってみても"あー、またズレてるー"というようなことがまだまだあるくらいなので、周りからすればものすごく手を焼く存在だと思いますが、有難いことに、いまの環境は客観的気づきをストレートにぶつけてくれる人にも恵まれています。

客観的思考によって見えてくる理想と現実の"ギャップ"は結構痛いです。でも、もっと痛いのはそこに気づく事なく生き続けることだとも思います。

書いちゃったらやるしかないし、自分の性格的に藪蛇なこともしそうだなと思うから、そこは先に謝っておいて、ビビりながらも今年の新しい挑戦に向かっていこうかなと思います。





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