見出し画像

【第13回】佐藤雅美 著 『大君の通貨 幕末「円ドル」戦争』

安政の5カ国条約締結の前後に日本は開国し、長崎以外の地で外国との通商が始まります。このとき重要だったのが日本における為替レート。
今回は、日本国内のハイパーインフレを引き起こした為替レート交渉、戦いの顛末を描いた、佐藤雅美氏による経済小説、『大君の通貨 幕末「円ドル」戦争』を紹介します。

本作の発表は1984年、第4回新田次郎文学賞を受賞しています。
その後本人による全面改稿が施され、2000年に文藝春秋から刊行されました。

二人の外交官、ハリスとオールコック

物語は、アメリカ総領事タウンゼント・ハリス、イギリス駐日外交代表ラザフォード・オールコックの二人の外交官と、幕府の外国掛との交渉、そしてそれらがもたらした日本国内への経済的影響について詳細に語られています。

日本の交渉担当には、外国奉行水野筑後守忠徳、外国事務掛老中間部下総守詮勝らが当たりました。

すれ違う為替レート

開国後の日本にハイパーインフレを引き起こした根本的な原因は、外国諸国と日本の対ドル為替レートに関する認識の不一致でした。
これを読み取っていく基本的情報として、日本は金本位制を採用していたこと、外交官が日本に持ち込むメキシコドル(金貨)を日本国内で使う通貨に両替する場合、コバング(小判、金貨)、イチブ(一分銀、銀貨)、ニシュ(二朱銀)などがその対象となることを押さえなくてはなりません。

作品では細かに根拠が記されているのですがここでは割愛します。
外交団が主張するのは1ドル=3イチブ。これは条約に規定されている「通貨の同種同量交換」の原則に基づくとするもの。

一方で日本が主張するのは1ドル=1イチブ。国内だけで通用する、政府の刻印を打刻することで3倍の価値が与えられている代用通貨の存在は、中国・オランダとの通商時代から公にしてきたルールです。

日本側の主張が正しかった

結論からいうと、この両方の主張の食い違いについて、1862年イギリス大蔵省の調査によって、日本側の言い分が正しく、外交官の主張が間違っていた、日本から国家賠償の請求がなされる可能性もあり、下手をすると国交断絶をも引き起こすものだと認定されます。

しかしそれも事後の話、1859年のハリス、オールコックの着任から約2年に渡って、国際金銀比価が金:銀=1:16なのに対し、日本国内では金:銀=1:5となるカラクリを発見した外国商人たちが、上海を経由することで金を3倍に増やすため、日本の金、すなわちコバング漁りに走るのです。
しかもそれにいち早く気づいて利殖に励んだのが、アメリカ総領事ハリスだったのでした。

為替差益で年俸を上回るほどの利益を上げられることに気づいた外国人の、容赦ない両替要求。幕府は再三禁止令を発しますが押し切られ、日本は外国人にとってさながら「ゴールドラッシュ」となってしまいます。

また、前述の為替レートが改められないことで、日本の商品は3分の1の値段で買い叩かれ、外国商品には3倍の値段を払わなくてはならない状態が続きます。
結果的に国内の商品は値上がりし、19世紀の日本を襲ったオイルショックを凌ぐほどのインフレが引き起こされてしまうのです。

外国人に対する敵対心

そうした実際的な損害もあったことから、国内では外国人に対する視線が冷ややかになり、過激派志士達の外国人殺傷事件やイギリス公使館焼討ちなどの事件が相次ぎます。

ハリスの腹心であり通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンも、万延1年(1862年)に攘夷派の薩摩藩士らに襲われ死亡しています。

浅田次郎 著『大名倒産』

ここで同じ幕末時期の、大名の窮乏を描いた歴史小説、浅田次郎氏の『大名倒産』をご紹介します。

江戸年間260年をかけてつもりに積もった借金は25万両…到底返済はできない、窮地に追われた新藩主の奮闘を描くフィクション、歴史エンタメ小説ですが、この大名家の台所事情がなかなかリアル、おそらくこんな感じだったのだろうという説得力がある作品です。

閑話休題、話は「大君の通貨」に戻って…。
お殿様でさえ慢性的に窮乏しているこの時代に、恫喝するように開国させられ、息もつかない間に金が国外に流出し大不況が襲った…。
考えるだに、気味の悪い情勢です。
当時資本主義の概念すら持ち得ていなったところにいきなり新しい価値観を押し付けられたのでしょう。
後世の人間が、幕府役人の外交交渉のまずさを糾弾することはできないなあ、と、知らないことの恐ろしさを感じざるを得ません。

円ドル戦争の勝者は

イギリス大蔵省の調査によって、為替レートに関する日本側の主張が正しかったことは認められましたが、日本側がアメリカやイギリスに対して損害賠償を求めることはありませんでした。

ハリスは自らのコバング漁りを咎められる前に辞職し、オールコックはその後10年の外交官生活ののち、病院の理事長や看護学校の設立、パリ万国のイギリス代表を務めるなど華々しく活躍します。

一方の水野は高まる倒幕の気運で将軍を補佐し続け、腕の古いどころがないまま幕府の崩壊を迎えました。
そして明治維新を迎えると、過ぎし日の、外国による不当な国内経済介入を正すような余裕は、日本の誰にもなかったようです。

天皇も将軍も登場しない幕末小説

本作は、天皇も将軍もほとんど登場しない異色の幕末小説に感じます。
一方で、開国によって実際の日本は、日本経済はどうなっていたのか、外交官は日本にどんな眼差しを持っていたのかを読み取ることができます。

外交官たちにとって当時の日本との交渉は、「極東の、そのまた果ての半未開人の住む見知らぬ地で行う任務」であり、「日本人は恐ろしい猿知恵と働かせてくる」と陰謀を決めつけていたと、その非情たる偏見が描かれています。

これは小説作品だからか、はたまた外交官たちの本音だったのか…
少し寂しくも、検証を続けなくてはならないな、などと感じさせられます。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?