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言葉という火を、くべ続けるということ

「願望は“すでに叶っている前提”で書くと叶いやすい」とよく言われる。たとえば「彼氏ができますように」と書くのではなく「彼氏ができる」「彼氏ができた」と書く、ということだ。スピリチュアルの世界でよく言われることだが、心理学でも「自己成就予言」という言葉がある。こうなる、と思っていると自然とそれにそぐう行動を取るようになり、結果として叶うというわけだ。

さて、手元に1枚のメモがある。力強い筆致(というか殴り書き)の、断定形の力強い言葉。15年ほど前に、私の父がくれたものである。

◎さあやるぞ
かならず成功する

◎私はとても運がいいのだ
必ずうまくいく
絶対に勝つ

何かの裏紙であり、まっすぐに切れてすらいないという父親のザツさはまあ置いておくとして、当時のことを少し書いてみる。

私はとても若く、離婚したてだった。駆け出しの物書きだったが、仕事と言える仕事もなかった。途方もなく貧乏であり、図書館で『食べられる野草』という本を借りて線路脇の草を摘んで食べていた。「もうちょっと他にやるべきことがあるだろうよ」と今となっては思うが、しかしまあ布団がないので新聞紙をかぶって寝るような毎日だったのだ。冷蔵庫も洗濯機も鍋もコップもなかった。念のために言っておくと平成の話である。
鈍行電車で実家に帰省し、たくさんごはんを食べさせてもらい、さあまた今日から東京で草ライフだわと思っていたところ、出発間際にこの紙を手渡された。

正直なところ、ものすごく意外だったことを覚えている。父親は頑固職人を絵に描いたような人で、「歯を食いしばって努力しろ」「地べたを這いつくばってでも耐えろ」とよく言われた。離婚だって自分で選んだことだ、自分のケツは自分で拭けと言われて当然と思っていた。それなのにこのメモは、ただただ肯定してくれているのである。なにひとつ根拠なんてないのに。成功する保証もなければ、勝とうとする相手すらいないのに。

このメモはその後も、人生の要所要所でなぜか引き出しから発見されることとなった。「整理整頓」という言葉を母のお腹に置き忘れてきた私としては、なくさないこと自体が驚異的である。というか、なぜか引き出しから出てくるのだ。恋人と住むために引っ越しするとき。会社員になるとき。独立するとき。過労で入院したとき。そのたびに首をひねった。何をもって成功というのか。何に勝つというのか。読めば読むほど意味がわからなくなってくるのだけれど、出てくるたびに私は肯定され続けた。死にたいくらい、厳しいこともあったけれども。

当時はまさか、占い師になるとは思っていなかった。人生とはわからないものである。そして改めておのれを振り返ってみると、私は占い師として「ご相談者様を絶対的に肯定する」ことをポリシーにしていたのだった。どんなご相談内容でも、その人がどんな感情の渦のなかにあっても。

占いはそれ自体に意味があるわけではない。ただの言葉である。ご相談者様が占いの結果を聞いて、行動して初めて運命が変わる。それには「さあやるぞ」という気持ちになっていただくことが欠かせない。そのために私が選んだのが、その方の歩みやお気持ちを「肯定する」という姿勢なのだった。

「成功」なんていまだにわからない。「勝つ」と思いたい相手なんていない。それでも、人生の折々で肯定してくれたこのメモは、脈々と私のなかに生きていたらしい。私にとって紛れもなく、「さあやるぞ」と行動を起こした結果であり、「うまくいく」なのだろう。父はこのザツすぎるメモを通して、私の心に火をくべ続けてくれたのだ。

言葉は刃にもなれば、栄養にも花にもなる。できれば私は、父がくれたこのザツなメモと同じように、私を必要としてくれる人の心に言葉で火をくべ続けていたい。どんな絶望のさなかにあっても、明日を信じていられるように。言葉が私を生かしてくれた、その経験をもって。


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