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なぜこんなに『信じて待つこと』は難しいんだ、を解明した先にあったもの

信じて待って欲しいのに、待ってくれない。
信じて待つことができないんだよね・・。

どちらも分かる、分かりすぎるぞ。
私も苦手だ。

というテーマについて友人と談義していたら、ちょうどツイッターでも『信じて待つ』が目に飛び込んできたので、タイムリーな話題として取り上げてみる。最初に私自身の解を書いちゃうと、

信じて待って欲しいのに待ってくれないのは、あなたが信じて待つことができないから。
相手を信じて待てないのは、自分を信じることができないから。

と現時点では結論づけている。

まず、信じて待つという概念を教えてもらったのは10年前。でも全く理解できず、1年前私の辞書に『待つ』と言う概念をお迎え。

信じて待つ、は見守ること

信じて待つ≒見守るを同義で捉えている。
出産後、夫や子どもにイライラした時に、見守ったらいいのよ。とアドバイスを受けていたんだけど、見守るってどうすること?と分からなかった。

信じて待つとは見守ること。
見守ることは、相手に無関心ではなく温かい目で、口出しせずにそっとしておくこと。が、ギリギリ私の中で理解できることだった。

難しい。が、信じて待てる女になりたいという気持ちから「どうして信じて待つことが難しいのか」を解明したい気持ちが前のめる。

①二つの要素が必要

まず『信じて待つ』には、『信じる』と『待つ』の2つの要素が必要だから。ダンスを踊る際、手の振り付けだけをしてる時は上手くいくのに、手も足も一緒にとなったらてんでバラバラになるように。

しかも『信じる』『待つ』は、一つずつでも体現していくのが難しい。信じることが得意だったら、大抵のことがうまくいくくらいの要素。難しい要素がダブルで入ってるんだから、難しくて当たり前。 


②見えない・受け身

どちらも行動として見えないことなので分かりづらい。待つは受け身だから、能動的に動く人間にとっては苦痛になりやすい。

「信じて待ってるよ」

と何回も言い続けたら、相手は「信じてくれてないな、待てないんだな」と捉えてしまう可能性が高い。口を出さない、手を出さない、期待しないなど「しない」ことがポイント。


③自己完結しない

『信じて待つ』は、大抵の場合、自分以外の誰かが存在する。
※自分を信じて待つも他者がいる時と同様だが分かりにくくなるので割愛。
自分のことだけより2人、組織になる方が難しくなるよね。自分から信じたり、待ったりすることが必要だけど、現象としての結果は相手の状態で判断するから。自分だけで完結しないものは、ハードルが上がる。


④とにかく時間がかかる

『とにかく』を強調するほど、とにかく時間がかかる。難しさの最大の要素。待つには気長さや忍耐がいる。1週間、1ヶ月経ったら相手が変わる?最大1年?そんなの分からない。

【忍耐】待つの象徴

因みに夫に対して『信じて待つ』ができるようになったと自覚してから、夫婦関係の変化までには半年から1年ほどかかった。

『信じて待つ』のテーマについては、正直1年で変化があればいい方じゃなかろうか。
このテーマで書きたかった理由があり、初めて信じて待つを教えてもらってから10年目の節目だから。

最大のギフトは○○○

10年前、私は仕事も家族もボロボロで悲惨な状態だった。特にやんちゃな弟には随分頭を悩ませていて。事件が多発し、一家離散になるかもしれない状況の時に、お世話になっていた方から言われた言葉は

「本当の意味で家族が幸せになるには、最低10年かかると思いなさい。最低10年、長かったら20年。でもあなたがいるから大丈夫、信じて待ってあげなさい。

最低10年・・・。その時には気が遠くなるような時間。

何度も信じてあげられなくて、口を出しては、弟との距離が遠くなったり、家族みんなで対話をしたり。信じて待つことができたかどうかは検証できないけれど、家族誰もが「信じて待つ」「信じて待ってもらってる」を分からずともどうにか実践しようとしていた。

新しく道を歩き始めようと弟と家族と誓い、信じて待つがスタートしてから10年目の春。節目のタイミングで弟と電話をした。

「あれから10年、30歳でフリーランスになるという目標は叶えることができた。信じられてる、期待されてるプレッシャーを感じることもあったけど、前よりは色々良くなってるよね?!」
と手に職を持つ3児のパパになった弟はそう言った。

一ミリの不安もないと言っては嘘になってしまうのは、心配性の姉のサガだろう。可愛くて仕方ない弟も30歳をすぎて、いいオッサンなのにね。

先日両親と、鞍馬ハイキングでゼーハーしながら山を散策しながら10年間を振り返った。何をしても、些細なことでも「幸せだね、ありがたいね」を連発する父母の想いは、私以上のものに違いない。

『信じて待つ』を初めて実践した10年は、とてつもなく長くて苦しい道程。


だけど『信じて待つ』の先に与えられたのは、多幸感・至福と呼ばれるものがあった。

なんとも言えない、口にできないほどの包まれた感覚。

それは、弟と対話した時でもなければ
両親とハイキングで頂上に辿り着いた時でもない。

父が饒舌に語る姿を、夫と一緒に見た時。 

手も口も出さず、信じて待つをしていた父が、幸せそうに饒舌にしゃべる姿を見て、感じたことのない感覚に包まれた。

一旦10年の区切り。長くて苦しかった先にあったのは、家族からの最高のギフト。

それはたぶん多幸感だね。






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