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普遍的にすると何かを失っている。

身体性についてのイベントで、ひとりの方が、「身体性」という言葉で話すことで、「身体」とは別のものにしてしまっていないか?ほかの言葉で説明した方がより伝えたい「身体性」のことを表せるのではないか?というような話をされていた。

「身体性」というのが、いろんな業界などでそれぞれの意味で使われている、というのは、登壇者の方が冒頭で話していたことでもある。
業界によって、なんなら会社などの組織によって、同じ言葉がちょっとずつ違う意味で使われていることはよくあると思う。
だから、すでに使われていてそれぞれの場でそれぞれの意味がある「身体性」という言葉でない、新しい言葉を使うのがよいのではないか(たとえば「唯身体」という言葉はどうか?などの話があった)という話にはめちゃくちゃ同感で納得だった。

それ以上に興味を惹かれたのが「身体"性"という言葉によって、身体とは違う何かになっていないか」という話。

それは、言葉にして伝えようとすることで、普遍的なものとして説明しようとすることで、本来と違うものになっていないか?という話だった。

言語があるから、人は異なる環世界を想像することができる、という話があったが、言語にすることでその言葉によって何か違うものにしてしまっているのではないか。
「身体」のことを話しているのに「身体性」という言葉、普遍的な何かを説明しようとする言葉にして、それは「身体」と違う何かを表すものになっていないか。
人に伝えたり説明したりするとき、普遍的な言葉にしていき、その言葉では説明できないものになっていないか。
普遍性を持たせて広く伝えようとすることは必要ではあるが、普遍的にしてしまってよいのか。

メモ取ってないし自分の解釈で要約だからちょっと違うかもしれないけど、私が受け取ったのはこんな感じのこと。
すごいわかる!って思った。今までずっともやっとしていたのを、説明してもらえた感。

言語化と普遍性というのとは少し違うかもしれないけども、体験したことをテキストや画像や写真に残すことで、そこに表現しきれない何かがなくなってそのものではなくなる感がある。

こうやって、印象に残ったことや考えたいこと伝えたいことなど、記録しておきたくて書くのだけど、それもやっぱり、そこに記録しきれない、書き表せない何かが抜け落ちていて、その抜け落ちたままの、そのものではないものが残ったり伝わったりしてしまうのがいやだなぁと思う。
できるだけ残そう伝えようと細かく書こうとすればするほど、そのものとの違いを感じてしまう。

その記録として表そうとすればするほど、考えたりしすぎる結果、表そうとした内容の印象が強くなってしまい、記録して残したり伝えたりしたかったそのもの自体が残りにくいっていうパラドックスに陥る。
記録しようとまではしなかったものの方が、そのもの自体の記憶や感覚としては鮮明になったりしてしまう。

それでも何かを残したくなったり、記録することで考えたかったり、思い出してそれを言葉や絵にしようとすることでまた追体験したりするのが楽しかったりして、かいておきたくなるのだけど。

言語ってあくまでもツールだし、体験したすべてを表せるものではない。
それは言語だけでなくて、ほかのツールでも同じだとは思うけど。

でもそれなら、体験とか経験ってなんだろう?とも思って、また疑問が増えているところ。
(続く)

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