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話し合うということ。

「意見を受け入れる」ということについて、認識がずれていると困ってしまうなぁと思うのだけど。

「話を受け入れる」かどうかの前に、「話し合う」ということも人によって認識が違うなぁと感じている。

私は、話し合うというのは、お互いに話してお互いに聞くことだと思う。
それぞれの話を聞いて認識や考えが違ったらすり合わせたりしていくようなのが話し合いだと思う。

たとえば誰かが一方的に話をしてそのとおりにして、というような場合とか、結論を最初から決めている話は、話し合いでないと思う。
伝えているだけで、聞いていないから。

一方的で決まってるなら、そもそも話す意味がないと思うし、それを指示するだけでいいじゃんと思う。
聞くかどうかは別の話だけど、少なくとも私は、話し合う風にしておいて話し合いでなく一方的にするくらいなら、最初から指示すると決められて提示された方がまだそのとおりにする気になる。

お互いに話してお互いに聞いていたらそれで話し合えているかというと、「聞いている」かどうかで全然違うとも思う。
物理的に聞いている、話の内容が耳に入っているか、という話ではなくて。
話の内容を受け止めて自分の意見に合わせて考える気があるかどうか。

意見を取り入れるまでいかなくても、一部でも取り入れたりする余地があるかを検討しようとするか。
そのつもりで話を聞いているか。
というようなところ。

話をする機会は用意する、でもまったく聞く気はないとか、意に沿わない話なら聞く気がないとか、そういうのは「話し合えて」いないように感じる。
話し合う風の形を取っているだけだと思ってしまう。
だったら話し合いじゃなくて一方的にいうのと変わらないじゃん?って思う。

話し合いではないのに、話を聞く風、話し合い風をされるくらいなら、そんなことしなくていいのに、と思ってしまったりする。
聞く気がないなら話さなくていいやと思ってしまったりもする。
それは自分の弱さだったり怠慢でもあるとは思うし、話し合い風がいやならそれを変えるようにがんばればいいとも思わなくはないのだけど。

でも、話し合う定義が違ってると、お互い話し合うのが思うようにいかなくて難しいなぁと思う。

結果的には同じになっても、話を聞いた上で結論を出したのと、話を聞いた風で聞で結論出されたものと、受け取った感があるかどうかだけでも納得度が違うと思うんだけど。
私はとりあえずでいいから受け取ってほしいし受け取りたいと思うしその上で「話し合い」がしたいと思う。

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