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ニュートラルに描くという感覚。

先日参加したミーティングで、ずっとグラレコをしていて、すごく楽しくて。
楽しいのは楽しいのだけど、テンションあがるようないつもの感じとも違って、それがよかった。

素で、無でいて、何も考えずに、たんたんと楽しかった気がする。

どう描けばいいか迷うことがなくて。
どう見せたらわかりやすいかなど、考えなくて。
ただ聞いてそのまま描いていたし、がんばることも気負うこともなかった。

もともと、記録して伝えるために描くのと、その場を可視化するために描くのとでは、描いている感覚が違う。

情報を伝えようとするときは、どうまとめるかどう構成するかなどを考えたりしてしまうけど、その場を描きとめるのであれば、そこに出された言葉を置いていくだけだなと思う。

記録するため、情報として伝えるために書いているときは、流れていく言葉をひたすら追いかける感じがする。
追いかけて持っておいて、整理して紙の上に置いていく。
描くときには、構成や配置ごと浮かぶのを、うつしていく感じ。

対話や場を描きとめるときは、言葉がぽんっとその場におかれて、それを拾って紙の上に置き直すような感じがする。
何かがその場に置かれて、それに反応してまた何かが置かれて、都度拾って置いていく感じ。
絶え間なく追いかけて拾うこともあるし、流れとかを見てどこにおこうかと考えたりすることもある。

そのミーティングでは、言葉がそこに置かれるって感じとも違って、流れていく感じだった。
つながって湧き出てするすると流れるのを、描きたいところを掬う感じ。
途切れずに、ずっと流れていた気がする。
ときどき小ネタがはさまれて小さな流れは切れたりするのだけど、ずっと大きな流れがそこにあって、次々つながっていた。

記録するにしても可視化するにしても、よく、すべてを残しておきたくて必死で言葉を追ってしまったりするのだけど。
そういう必死さもなくて、リラックスして描いていた。聞きながら描いているけど、ときどき聞くだけになってたり、そのときの流れや気分で自由に。

描くことで役に立ってそこにいる理由をつくろうとしてしまったりもするのだけど。
そんな目的とかも持たずに、描きたいから描く、描きたいように描かせてもらうってだけだった。
描きたくて、協力してもらえて、描けるのが楽しいっていうそれだけ。

描くのが楽しかったり夢中になりすぎると、その場にいるのにそこにいなくなってしまったりもする。その場から浮いて、紙との間にいるような。存在しているけど参加していない感じ。
そうではなく、そのときは私はそこにいたと思う。場からはなれずに地に足ついて同じところにいれた気がする。いい意味で描くのに夢中ではなかった。

これまでとどっちがいいという話でなく、その状況によってのよさがあるけど、とりあえずこれまでと違う感覚で描いていた気がする。

思考したり計算したり余計なこと考えたりもせず、過剰に絵に集中したりもせず、ニュートラルに描いていたように思う。
何も余計なことを意識する必要がなかったし、そうしていられたのだと思う。

自由で素でいて、そのままいてよくて、好きに描いてよくて。

自分が自分でそのまま受け入れられるところをつくろうとしているみんなの中で、私は私のままでいたのだと思うし。
多分みんなもその人のままそこにいて、自然に何かが出てきたらそこに出していく、という感じだった気がする。

場の空気がそのまま、描くときの感覚につながっていたのかもしれない。

描くことに入り込んでしまう感覚もすごい好きなのだけど、ニュートラルな自然な感覚もいいなと思って。
自分だけではつくれない、その場や人とつくれた感覚なのが、またいい感じだなと思う。

その感覚を覚えておきたいし、その感覚でまた描きたいし、そんな感覚の中にいれるのが普通になれたらいいなと思う。

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