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2019/5/11 Let it be/レ・ミゼラブル感想

念願かなって帝国劇場でレ・ミゼラブルを。高校生の頃にロンドンで、その後映画で何度かみて、小説も読んだ。今までの印象としてはとにかく暗い作品。音楽が群を抜いて素晴らしいのだけど、観終わると悲しい気分になる作品。特に登場人物のジャン・バルジャン、フォンテーヌ、エポニーヌは、不運すぎはしないだろうか、ずっとそう思っていた。

そんな中「観よう」と思ったのは劇団四季時代に好きだった俳優さん達がこぞってレ・ミゼラブルに出ていたり、知り合いの大好きなピアニストが「絶対みるべき作品」として数年前にレコメンドしていたり、そして近年稀にみるチケットの取れなさと聞きミーハー心を刺激されたり、と色々重なったから。それで何度かの抽選を経て、ようやくチケットを手に入れて、先日再びみることができた。

今回みて気づいたことがある。私はこれまでずっと、この作品をみるたびに、登場人物のジャンバルジャンの人生は、フォンテーヌの人生は、そしてエポニーヌの人生は幸せだったのか、そうじゃなかったのかと考えた。

だけど今回は、幸せか不幸かの軸で、考えることはしなかった。パンを盗んだ罪で19年投獄された、やっかみから仕事をクビになり失意のうちに身体を売った、愛した男のキューピッド役をやることになった、という登場人物のもとにふりかかった「事実」に思いを馳せた。それは今までこの作品に触れるたびに感じていた、なんて残酷な、かわいそうな、不運な、という気持ちとはずいぶんと違う感情で、それがどういうことなのかをここ数日考えていたのだけど、まだうまく言語化できずにいる。

ひとつだけあるとすると、私の人生に対する解像度があがったのだと思う。19年の投獄が不幸かどうか、そう単純化して考えられなくなるほどに。

たとえるなら子どもを育てていると、多分に不自由と感じることがある。今はパッと1週間ほど旅行したい気分なのだけど、子のことを考えるとそうもいかない。ただそれはやっぱり産まない人生の方が身軽だなあ、とか、いやいや子どもは可愛いからそんな不自由さへっちゃらだよ、とか白黒はっきりつける感じではないのだ。ああ、不自由だなあ、という感想、ただそれだけ。

ビートルズの”Let It Be”、私はずっと、つらくても時の流れに身を任せていればいずれ善い方向に行くから、という風に解釈していたのだけど、もしかしたら実は全然違っていて。「つらい」や「悲しい」という気持ちすらも、Let it be、そのままに、ということなのかもしれない。そしてもしそんな風にこ世界を捉えることができたなら、今みている景色とはずいぶん違うものがみえるんじゃないか、そんなことを考えている。



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