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2021/10/12 悲しい出来事は一生背負うものか、それとも海の一部かの話

久しぶりにとてもとても忙しく、定時は22時のような気分。弊社、22時以降に働く場合は社長の承認が必要で、それが抑止力になっていなかったら、ずっと働き続けてしまうんじゃないだろうか。とにかくやることがたくさんあって、手を動かしていないと落ち着かない。
幸い子は機嫌よくひとり遊びをしてくれていて、(そしてYoutube!!)それがワーママとしてはとにかく救い。22時を過ぎたら、一緒に積み木かおままごとか絵本を数冊読み、歯を磨かせて寝かせる。子なしだったらその時間も仕事できる・・!が、その小一時間がリフレッシュになっているようにも思う。子を持つどころかおひとりさまライフを満喫しようと思っていた時期がウソのよう。次に生まれ変わるとしても、絶対にワーママになる。

さてさてそんな超忙しいさなかに、それでも先週、本を3冊読んだ。どれもサリンジャーの作品、そしてサリンジャーの著作の考察本で、久しぶりにサリンジャーの世界にどっぷりつかる。

サリンジャーは「ナイン・ストーリーズ」に収録されている「バナナフィッシュにうってつけの日」と「テディ」という短編が好きだ。
私の好きな作品に共通しているのは「死」が大したことのがないように、さらっとしていること。
「バナナフィッシュにうってつけの日」も「テディ」も最後に登場人物が死んでしまうのだけど、不思議とそれは「悲劇」ではなく、それは今回読んだサリンジャーの考察本「謎ときサリンジャー」の解説で書かれていた、「海」のような解釈で書かれているからかも、と合点がいった。

シーモア少年やテディー少年にとっての時間が、流れ去る川のように一方向に旅するしかないものではなく、そこに絶えずあり続けて行き来が可能な海のようなものであったならば、彼らにとっての過去や現在や未来は、全て同時に存在していることになる。
(中略)
しかし、こうして「海の時間」を経由すれば、過去と現在と未来が同じ盤上にあるゲームも想像できる。そこでは、未来は到来するものではなく、すでにそこにあるものである。だから「神の八百長」同様、何が起きてもびっくりすることはあり得ない。いわば全ての出来事が再放送であり、予告編が本編と同内容の世界である。

朴舜起 /竹内康浩「謎解きサリンジャー」

この本を読みながら思い出したのは、村上春樹原作の映画「ドライブ・マイ・カー」と、そこで取り上げられるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」のことだった。



映画「ドライブ・マイ・カー」と戯曲「ワーニャ伯父さん」で共通しているのは、悲しい気持ちを「一生背負って生きる」と受け入れることだった。そしてそれがちっともネガティブな決断ではなく、そう受けいれることで、心穏やかに過ごせる、そんな印象を持って、それが私にはとても新鮮な「悲しい出来事」との付き合い方だった。

が、よく考えると私は「海」の解釈がより好きだなあと思う。人の一生が「川」のように、遡れず、終着点に行き着くだけだと考えると、終わりはとても悲しいものだけど、「海」であるなら「死」はただの海の一部で、むしろ「生」が海の大半だといえる。「死」に着目するから悲しいのであって、「生」に目をこらすと、それは確かに記憶の中にある。それは相手が死んでようが生きていようが同じことで、だからそこまで悲しいことにはならないのかもしれない。

大好きな短編「テディ」にはこんな一節もある。

「それでスヴェンが今夜飼犬が死んだ夢を見たとする。スヴェンはきっとろくに眠れないだろう。なにしろ彼がとても可愛がってる犬なんだから。でも翌朝目が覚めたときにはもう大丈夫。夢にすぎなかったことが分るからね」
ニコルソンはうなずいて「要するに、きみは何を言いたいの?」
「ぼくが言いたいのはね、彼の犬が実際に死んだ場合でも、全く同じことだってことさ。ただスヴェンにはそれが分らないだろう。つまり、彼は自分自身が死ぬまで目が覚めないだろうからね」
サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」

こんな考え方に触れると私はなんだかとても気が楽になって、「生」に集中できるように思うのだった。


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