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ヒカシュー45周年座談会

ヒカシューの45年は着実な歩みの積み重ねだった。その間ヒカシューは、解散も休止もなく、毎年活動を続けていた。そしてその歩みは、世界的な大事件にあっても止まることはなかった。
前回の40周年と同じ場所、同じ顔ぶれで行われた座談会は、この5年間を振り返るものになったが、それは自然と、あの出来事に触れるところから始まった。
(聞き手 安達ひでや)

――40周年の座談会から5年が経ちましたが、その間に大変な出来事が起きました。新型コロナウィルスの流行によって世の中が一変し、ヒカシューもまた活動を制限されてしまったわけですが、最初にその影響を受けたものといえば何になりますか。
巻上 エストニア・ツアーですね。日本や韓国といったアジアとの交流を目的としたフェスティバルがあって、そこのディレクターが呼んでくれたんです。
坂出 何年も前から交渉していて、ようやく実現した。
巻上 こっちが出発する日に、日本では緊急事態宣言が出たんだけど、ただエストニアでは出ていなかった。
坂出 もうその時にはフェスティバル自体は始まっていて、出発の前日にも確認したんだけど、実際に行われていたので、大丈夫だろうと思ったんです。
佐藤 飛行機もちゃんと飛んでいたしね。
坂出 ところが着いた次の日に、WHOがパンデミック宣言を出した。それを受けてエストニア政府が即座に、その翌日からすべての興行を中止すると決めたんです。それをこっちが知った時には、もう演奏場所のタルトゥっていう都市に移動していた。
巻上 ライブの当日にそういうことになってしまって。
佐藤 それから主宰者側が騒ぎ出した。
坂出 ただその頃はまだ事情がよく分かっていなくて。どうして興行が中止なのか、いつからそうなるのか、何も分からない。
巻上 中止っていうのは次の日からじゃないか、だったら今日の12時までだったら演奏してもいいんじゃないか、とかね。
坂出 そんな感じで情報が錯綜していて、どうなるんだろうって思っていたら、お客さんが来てしまって。
佐藤 お客さんは何も知らないからね。
――結局は演奏できなかったわけですか。
巻上 それが、その日は演奏できたんです。
佐藤 あやふやな状態のままで。
三田 やっていいのかな、みたいな感じだった。
――お客さんはたくさん来たんですか。
巻上 そうでもなかった。なぜかというと、武漢から出てきたウイルスということで、アジア人に対する問題というのが起こっていて、われわれだけではお客さんが来ないんじゃないかと思われていたんです。それで、エストニアの有名人にゲストで入ってもらうことになって。
佐藤 ギターを弾くんだけど、レッド・ツェッペリンしかやらないという人(笑)
巻上 本職はテレビのプロデューサーなのかな。それで、その人に入ってもらって。お客さんもそれなりに集まりました。
――それで、その日は演奏できたけど、次の公演からは中止になって。そうなると、帰らないといけないわけですよね。
佐藤 中止にはなったけど、まだ帰るわけにもいかなかった。
巻上 帰りの飛行機はまだ先の予約だったので、数日間はいないといけない。
坂出 それでスタジオを取ったんです。ここまで来て何もしないで帰るのももったいないということで。公演は禁止になったけど、スタジオで録音するのは問題ないから。
佐藤 ただでは転ばない(笑)
坂出 なんせ初めてのスタジオ、初めてのエンジニアだったから、いつものニューヨークのレコーディングとは違うけど、できることをやろうということで。
清水 いろいろあったけど、レコーディング自体は楽しくできました。
――それが『なりやまず』(2020年 makigami records)になるわけですね。
巻上 そうなんです。
坂出 実際にレコーディングしてみたら、これはやっぱり作品にして残しておきたいという気持ちになったんですよね。この時にしかできないという貴重な記録になっていたので。
佐藤 その後にぼくと巻上さんはモスクワで公演が決まっていたんだけど、それもやっぱりキャンセルになって。
巻上 いやいや、実は、その公演は、あまりに不安でこちらがキャンセルしたんです。
――日本に帰る時も何か問題はあったんですか。
坂出 帰りの便を手配してあったんだけど、いざ空港に行ったら航空会社自体が開いていなかった。現地の人から情報をもらったりして、やっとのことで代わりの便が確保できたんですが、本当にぎりぎりのタイミングだった。帰ってきたのが17日だけど、21日から隔離が始まって。それでヨーロッパはすべて入れなくなったけど、日本は対応が遅れていたから。
清水 日本に帰ってきても隔離どころか、検査も何もなかった。
佐藤 戻ってきた時はまったく普通だった。ただの空いている成田空港って感じで。
――それで帰ってきて、とりあえずレコーディングはしてきたけれど、ライブもイベントもできない状態ですよね。
巻上 マンスリーヒカシューはあったけどね。
坂出 4月、5月は中止になったけど、6月には無観客で配信のみということで再開しました。
――配信でライブをやるというのは、その頃には多くのバンドが行っていたんでしょうか。
巻上 急にみんな始めた感じでしたね。
坂出 ヒカシューの場合は、中止になった2か月の間に会場のスターパインズ・カフェが機材を調達してきて、配信できる環境を用意してくれたんです。聞くところによると、スターパインズ・カフェでは二番目に早く配信ライブをやったらしい。
――そういう意味では、ここでも早く対応できたわけですね。ただ当時はウイルスの性質も分かっていないし、ワクチンも出来ていない。そして5月には学校も休みになり、いわゆるステイホームになりました。その間、皆さんはどうされていましたか。
佐藤 もう、広大な未来が開けてしまって(笑)。その意味ではわくわくさせられるところもあった。これだったら何でもできるぞって。それで、いろいろ機材を買い込んで、自分のスタジオから配信できるようにしたり、練習も時間があるので普段はやらないようなこともやっていました。
三田 同じように、新しい機材でいろいろやっていた。iPadを手に入れたので作曲に使ってみたんだけど、これが楽しくて、たくさん曲が書けた。普段とは違った雰囲気の曲ができるので面白くなってしまって、熱心にやっていました。
清水 ぼくは以前から絵も描いているんですけど、そちらに充てる時間が増えました。特に予定がなければ、午前中の2、3時間は絵を描いて、その後は音楽の作業をする感じで。今はライブも再開して、外に出られるようになりましたけど、用事で外出する合間に画材を買ったりすることも多いです。
坂出 もっぱらスタジオにこもって音楽制作をしていましたね。ヒカシューの他にもいろいろやっていて、主に演劇の音楽なんですが、それこそCD何枚分になるんだろうって思えるくらい大量に作っていました。
巻上 ZOOMとかが使えるようになったので、みんなで打ち合わせやリハーサルをやったりもしましたね。ネットということでは、YouTubeでヒカシューの昔のライブ映像を公開したりもしています。
――ステイホームに入っても皆さんそれぞれ出来ることをやっていたわけですね。その間には『虹から虹へ』(2021年 makigami records)というアルバムも出ています。
巻上 出たのは『なりやまず』の後になりましたが、取りかかっていたのは『虹から虹へ』の方が先だったんです。『なりやまず』は、エストニアでライブが出来なくなって、かわりにレコーディングしたものを、こちらを先に出そうということで。そもそもこの5年間のうち、2年目は曲作りを意識的に進めていて、それが『虹から虹へ』になりました。
坂出 マンスリーヒカシューの2年目のテーマがそれだったんです。新曲を毎回演奏するという。そういえば、この5年間はそのままマンスリーヒカシューの5年間でもある。
三田 確かにそうだね。
坂出 マンスリーの1年目は、デビューから年代を追って、いろんな曲を毎月演奏していくということをやったんですが、これが本当に大変だった。1年間が終わる頃には、累計で200を超える曲を演奏していました。それで2年目には、毎月新曲を作るという方針に変えたんですが、やっぱり大変だった(笑)
――それから、すこし時間はさかのぼりますが、巻上さんが詩集を出版されるという出来事もありました。最初の詩集(『至高の妄想』 2019年 書肆山田)が出た直後にコロナ禍が始まったわけですが、それから4年後に二冊目の詩集(『濃厚な虹を跨ぐ』 2023年 左右社)も出版されました。これはコロナ禍の間に編集されたのでしょうか。
巻上 実際には、二冊目の方もコロナ禍の前にかなり出来ていたんです。最初の詩集を担当してくれた書肆山田の大泉さんが同じように進めてくれていて。大泉さんは、40年間で詩集を千冊くらい作ったという本当に目利きの人なので、二冊とも原稿を渡してまとめてもらいました。しかも最初の詩集は、ヒカシューの40周年に間に合わせようということで、がんばって年内に出版してくれたんです。おかげで文学賞(第一回大岡信賞)の選考にも間に合って、最終的には受賞できたので、本当に感謝しています。ただ二冊目の詩集に取りかかっていたところで、大泉さんが急に亡くなられてしまって。途方に暮れていたのです。石井辰彦氏はじめいろいろな方が助けてくれて、別の出版社(左右社)から出ることになりました。
――詩集が出版されて、しかも文学賞まで獲得したということで、コロナ禍にあって明るいニュースでした。そして、今年4月には外出制限も解除され、いよいよ遠征もできるようになったわけですが、さっそくツアーが決まっています。それも九州に北海道、信州、中部、関西と広い範囲を回ることになりました。
巻上 北海道はまず西興部(にしおこっぺ)という場所での公演が決まったんです。イベントの音響をお願いしているGOKスタジオのエンジニア、近藤さんの紹介でヒカシューが演奏できることになって。企画の亀津さんの力で、しだいに規模が大きくなり、出演者も増えて最高のフェスティバル「ニシニカリシテ」になりました。それで、せっかく北海道に行くのならということで他の場所も回ることにしたんです。
――北海道の次は静岡、松本、名古屋、京都となるわけですね。そして8月には渋谷クアトロでの2デイズ(8, 9日)が控えています。
巻上 45周年のイベント自体は年明けには決めていたんですが、いい機会だからツアーもやろうということで、今回のような日程になりました。
――渋谷でのコンサートはたくさんのゲストを招いての公演ですが、オリジナルメンバーも登場しますね。最初のバンドと現在のバンドが同じ場で演奏するというのも、ヒカシューならではという気がします。
巻上 そう言われれば、あまりないことかもしれない。一緒に何かやるのも問題ないですし。みんな元気なのもうれしいことです。
――さらには新作も控えています。
巻上 『雲をあやつる』というタイトルで、もうほとんど完成しています。イリヤ&エミリア・カバコフの作品に基づいたものなんですが、きっかけになったのはアートディレクターの北川フラムさんが芸術監督を務めている「大地の芸術祭」でした。越後妻有で20年前から行われているトリエンナーレなんですが、カバコフの作品が昨年9作品揃い、新潟のまつだい、十日町Monetで「カバコフの夢」と題して開催される時のツアーに参加したんです。北川さんから参加の誘いがあって、せっかくだから以前から大ファンのカバコフ作品を題材にできないかと思って。それでまつだい駅の「棚田」という作品の前で演奏できることになったので、最高でした。ただアルバム完成の前に、残念なことにカバコフさんが亡くなられてしまった(2023年5月27日逝去)。カバコフさんご夫妻は現在のウクライナ出身ですが、モスクワ・コンセプチュアリズムというグループでも活動されていた。いわばロシアとウクライナの両方に関係しているという、今の状況では複雑な立場の人なんですが、世界平和を希求することの大切さを主張されてきた方でもありました。それで、どうすれば平和に手をたずさえていけるのかという、カバコフさんが作ったテーマをより押し出して、ぼくたちなりの作品ができればと思っています。また、ヒカシューのモスクワ公演に参加してくれたサックス奏者のセルゲイ・レートフもカバコフさんの仲間だったりするので、そういう縁も感じています。
――では最後に、ヒカシューの45周年から来るべき50周年に向けて、おひとりずつ思うところをお願いします。
清水 前回ここで話したことにも重なるんだけど、作品に関して、従来にないようなアプローチがもっとできればと思っています。たとえばインプロヴィゼーションひとつをとっても、これまでは面と向かってしかやっていなかったのが、いろいろなメディアを使うことで、同時に行っていなくてもちゃんと成立したりするわけで。そういうことにぼくはとても興味があるので、そのあたりを深めていきたい。なにせこのメンバーだと、全員がそういうことに抵抗がないわけだし、いろいろな可能性に目を向けておけば、世の中がどう変っていようとも活動は続けられるはずなので。そういう探究心を持っていることが、このバンドの凄いところだと思います。
佐藤 ぼくがヒカシューに入ったのは清水さんと同時で、まだ20年くらいだから、そういう意味では新参者なんだけど、それでも20年やっているとさすがにヒカシューというものが自分の中に浸み通ってきた感じがある。この3年間にしても活動は続けていて、地面をしっかり踏み固めている印象があった。そしてツアーを再開して、実際にお客さんの前で音を出した時に、すごく手ごたえを感じました。それまで踏み固めた大地があったから、まったく新しいことにも進んでいけると思えたんです。外国でライブができなくなってもスタジオを確保してレコーディングしたりとか、いろんなやり方で活動ができるわけだし、そういう自由さをもってヒカシューというバンドにしかないものが発信できるという確信がある。そうするうちにいろいろなものが付いてくるだろうし、それを楽しみながら、これからも続けていければと思っています。
坂出 ステイホームになって、ヒカシューでライブの配信が始まるまでしばらく間があったんだけど、もう何かやりたくなって仕方がなかった。そうなって分かったのは、今までどれほど突っ走ってきたのかってことなんだよね。それこそ1か月も休んでいられないくらいに。それで、コロナですべてが止まってから、少しずつ再開してきたんだけど、それで気付いたのは、時間の使い方とか、集中して作業に取り組むことを、以前よりも意識するようになった。ひとつひとつの作業を集中しながら、しっかり時間を使って、着々とこなしていく。シンプルなことなんだけど、そういうことの大切さが分かった気がしていて。それで、ヒカシューも含めて、今まで築いてきたものがあるので、そこからしっかりした形のものを残していけたらと思っています。
三田 コロナで時間が出来て、いろいろ整理とかしていたんだけど、そうするうちに自分でもすっかり忘れていた昔のものが出てきて。手をつけたまま途中で止まっている企画が結構あったりするので、そういうものも進めていければという気持ちがある。清水さんの話と重なるようだけど、止まっているものも、まったく違う角度から捉え直すことで、どうにかできると思うし、50周年に向けていいタイミングでもあるので、そういうこともやっていきたい。
巻上 三田さんはそういう掘り起こすことが得意なんですよ。『虹から虹へ』に入っている「LA LA WHAT」も、元々は1980年に書いた詩を見つけてくれて、それを完成させようってところから始まっていたりするので。そういうことができるのも、長くやってきたバンドの利点かもしれない。積み上げてきたものが大きいからね。それで、ヒカシューというのは、本当にいろんなやり方ができる、臨機応変なグループなんです。だから、新しいことにもすぐ対応できる。たとえば今、人工知能、AIが話題になっているけど、使いたいなら使えばいいと思うしね。ただ不思議なことに、日本に限らず、AIを怖がっている人がとても多い。それこそ自動作曲は20年くらい前からはじまってるんだけど・・。
確かに、いまはより早く音楽も映像も何だって作れるような能力があるけれども、われわれとしてはAIを排除したりしないし、それこそ組んだ方がいい。面白いものなら面白く使えばいいというだけで。というかみんな使ってるでしょ。
三田さん演じるChatくんというキャラも登場しましたし、いまは単純に面白がってる感じです。
――AIも使い方しだいということですね。それでは、50周年の時には、ぜひここでまた皆さんにお会いできればと思います。ありがとうございました。

2023年6月 福岡・アダチ宣伝社にて収録

安達ひでや

福岡を拠点に活動するパフォーマー、オーガナイザー。アダチ宣伝社代表。チンドン屋、新聞雑誌のコラム執筆、テレビ番組のナレーションなど多方面で活躍中。デビュー以来のヒカシューファンであり、2010年以来毎年恒例となったヒカシュー九州ツアーの主催者でもある。

関連映像

ヒカシュー30年間で12カ国の海外ツアーの思い出とエストニアから『なりやまず』

2020年エストニアでの模様を中心にした、これまでの海外ツアー映像のダイジェスト。



ヒカシュー1981年/渋谷エピキュラスでのライブ HIKASHU Live/Epicurus 1981

アルバム『うわさの人類』発売を受けて開催されたコンサートの映像。2020年公開。


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