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となりで聴く音

熱が下がったものの、感染症のために外出を控えて過ごした金曜日。なんだかもう割り切ってしまって、パジャマの上にカーディガンを羽織ってホストした朝の読書会。それから、久しぶりの友達とのオンライン対話。

それにしても眠い。熱もなく身体は元気なはずなのに何故もこんなに眠いのだ。少し前にコロナにかかった別の友達の情報によると、これは「倦怠感」というものかもしれないとのこと。たくさん眠ったつもりではあるが、あれだけ一度に熱が上がった、あの身体の強張りを考えると、確かに何か影響を残していてもおかしくはないのだろう。こまったな。暇を持て余してさぞかしいろんなことができるだろうと思っていたのに。でもそれは正確ではない。気持ちが散るものをつけているとダメなのだ。

試みとしてスマートフォンからSNSの一部を削除する。ほっとした。脳が休まる。次に気づく。パソコンを立ち上げている間にブラウザでみていてはいいみがないではないかと。「健やかさ」を理由に、非常に、非常にごく僅かにまで、SNSなるものを制限することが必要なのだ。SNSだけではない。否応なしに目に飛び込んでくる「関心のありそうな」あるいは「多大な広告費が費やされているのであろう」情報の数々が、本当に「疲れる」。冷静に考えれば、それに気をとられることは時に価値を与えるものか、それとも時を浪費するものかは、わかりそうなものなのに。

いろいろな「ただで手に入るもの」のまやかしによって、私たちは、本当に価値あるもの - 余白や静けさ、干渉されず純粋に耳を傾けるということ-を知らず知らずのうちに手放してしまっているのではなかろうか。本当はいらないものに「いらない」ということを諦める訓練を、させられてしいまっているのではないか。

そんなこと、風呂に入っている間には、書こうとなんて思っていなかったはずなのに、何故か言葉はそんな風にここに出現したのでした。

ラジオで聴くのは、毎週楽しみにしている、高橋源一郎の「飛ぶ教室」。弦一郎さんによる冒頭の朗読が好きだ。そしてそこから続く本の紹介も。ゲストとの深い、けれどもさりげなくこころを解されてゆく独特なやりとりも。

源一郎さんは同じ街の住人ということもあって、また、かつて同じスタジオの一室でお仕事を共にしたこともあって、とても不思議な距離感とともに存在を感じる方。私が本来持っているのに遠い遠い昔に手放してしまった何かを思い出すきっかけがあるような気がして、ふと目を閉じて、いのちの声に、チューニングをする。

ラジオから聞こえる、人の話す声が好きだ。もっとアナログの、時々雑音が入るくらいのがいいな。その、もどかしさ。「取りにいっている」感がいい。ラジオの音声との距離感が、私はとても好きだ。それは私にとってちょうどよい「となり」で、まるで夜空のような、自由な広がりを感じさせてくれるのだ。