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山桜の頃

まだ月の昇る前の遅い夜。鎌倉の友人と自転車を押して歩く帰り道に、今年の開花状況についての話になった。

「市役所のところの木は、もうすっかり葉桜になってしまったね」
「玉縄桜は例年通り早かったけれど、その他はずいぶんゆっくりな気がしますね。そういえば、スタバの桜も綺麗だけれど、あれはいつも、結構遅いタイミングな気がするなあ・・・」

鎌倉の山間に暮らす友人によると、山桜が少しずつ咲き始めたのだという。白い淡い色が、木々の中に明るく目立つ。そうだ、このまちは、山桜を抱く山に囲まれた土地でもあるのだ。このまちの四方に広がる立体的な風景を心に浮かべ、逗子の方にある桜の坂道を、いつか自転車で通り抜けてみたいのだったと思い出す。何かの映像作品にでてきたあの景色。人がいない時間に通れたら素敵だな。そういえば、桜の坂道といえば、何年か前の3月の暮れに訪れた水俣のそれも、それはそれは美しく、こころのほぐれるものだった。

春分の日の頃。あんなにずっとやりたかったことを企画していたのに、私はコロナにかかってしまい、その場に立つことが叶わなくなってしまった。今年は自分の身体や、こころの奥にあるものとより深く向きあおうと思っていたのに、出かけることも叶わず、その後に予定されていた呼吸のワークショップへの参加も、見送ることとなった。いろいろなことをスッキリ整えて、新たな暦をスタートさせるつもりだったのに。

その不調を経て、身体が思うように動かない不自由さが強くなり、結果「これは、少し長い目で身体を整えていくことが必要かもしれない」と考え直し今日に至る。

4月1日。朝の大好きな読書会の時間を経て、今日最初に取り組むことは「養生」のための漢方の診断を受けることだ(ドキドキ)。

そして、これを書いていながら、ふと考えた。言葉も、お薬のようなものだな。こころの声によく耳を澄ましながら言葉を紡いでいくと、「なんとなく」だった事柄が明瞭に感じられるようになったり、何故だかこころが軽くなったりする。気分が整い、こころが身体と調和している感覚となる。これ、お薬というより、医食同源という感じかもしれない。日々を生かす糧である言葉が、日々を癒す薬としての役割も持つ。

好きなものを好き!という感覚、その濃密さを日常にもたらすためのスペースを大きく広げてあげようと、雲の合間から日の射してきた部屋の中にて思う。

知り合いの教えてくれた美味しいカフェインレスのコーヒーを入れて。ここから少し瞑想をする。そして、身体に耳を澄まして。