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あわい(間)にこころを寄せる

桜の花びらが地面に吸い込まれてゆくにつれて、淡い緑が徐々に姿を現す。次第にそれは色彩を鮮やかにして、光を眩しく反射する存在へと姿を変えていく。やわらかさが、鮮やかさへと変わる。4月とはそんな季節だ。

和暦研究家の高月美樹さんが、SNSにオオミズアオの動画を載せていた。薄緑とピンク色のもふもふとした蛾。目の前にいたらびっくりして鳥肌が立ってしまうかもしれないその存在は、神秘さを纏う美しさで見るものを魅了する。オオミズアオの寿命はわずか1週間。その貴重さゆえに、見た人に幸運が訪れると言われているそうだ。

季節よ、あなたは常に動き続ける時の姿を、私たちに見せてくれている。きっと私たちは、あなたに意識を向けることによって、生命の絶え間なき変化を、そしてその恒常性を、忘れないでいられるのだろう。

ここのところずっと思っているのは、本当に大切なことは、言葉とことばの間にあるのではないか、ということ。

受信と発信の間。受信と咀嚼の間。咀嚼と解釈の間。沈黙と発話の間。

私たちは常に生成の最中にある。生成には意識的になされるものと、無意識のうちの働きによるものとがある。その観察にたってみると、「言葉上のやりとりに意識を向ける」ということが、どれほどのことを捉え、あるいは捉えそびれているかというを、より冷静に受けとめることができるのではないか。

わかりやすさ、速度、再生産性に重きをおいてきた近現代的流れは、「間」(あわい)の存在するスペースを少しずつ蝕んできた。「間」の重要な役割のひとつ:スペース。調整のための余白。調整というのは「いい按配」を探ることでもある。その探求的な行為は、おのずと感性を研ぎ澄すことにもつながる。

触れることなくしての「わかる」が肥大化する、「現代的理解」。

と、今朝、別のSNSに書いた。ふと口をついた言葉だが、これもまた「間」ということに関わる領域にあるように思う。

触れること。余白。そういったものの持つ質感の豊かさを、どのようにして私たちは取り戻していくことができるのだろうか。それが豊かであるという感覚を。

人と「触れあうように出会う」ことが可能な空間を、どのように創造していけるだろうか。

なぜかしら。季節外れの雪かきをしている風景が脳裏に浮かぶ。そろそろ寝なくちゃ。眠気にまけて、やわらかく退いて外に出る。