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最後だとわかっていたなら

私がこの詩を知ったのは、13年前の東日本大震災の後だ。
この詩が世に知られたきっかけは9.11同時多発テロの追悼集会だそうだ。


こちらのサイトで無料公開されている。


たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

最後だとわかっていたなら

作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦


この詩を知ってから、私が母親として、妻として、習慣にしていることがある。

それは、子どもや夫を見送る時、そして私がたまに見送られる立場になる時、必ず笑顔でいることだ。

ケンカしたままにしない。
たとえ、まだお互いにモヤッとしたものが残っていたとしても、いってらっしゃいは絶対に笑顔でいると決めた。

別れは突然やってくる。
だからいつも、『いってらっしゃい』が最後の別れになるかもしれないと、毎日、毎朝思いながら、笑顔で見送った。


高校生になれば、振り向きもせずに、小さく
「す。」
とだけ返して家を出ていた長男も、今は一人暮らしになり、たまに帰ってきた時はご機嫌で喋り、私のいってらっしゃいに『はーい』と返すようになった。

大学1年生になった次男は、小学生の頃からこれまで毎日、笑顔で「いってきます」と返してくれた。
そんな次男も、春から家を出る。


現在不登校の三男には、今はいってらっしゃいをする機会は少なくなったが、昨年までは学校に行くときは、同じように見送り、返事は長男と次男のミックスな感じだった。


夫にはお弁当を手渡し、「いってらっしゃいませ」と言っている。
深い意味はないが、いつからかそうしている。
必ず「ありがとう」と返してくれる。


それぞれの応え方のカタチがあっていい。
大事なのは、『私』が笑顔で見送れたかどうかだ。


「愛している」というのは、なぜか言いにくい。
でも、なんとなく
”I love you” なら毎日言える。 
そして、”I love you” ”me too" もサラッと言えるものだ。
子どももサラッと返してくれる。

大切な人ほど、大好きな人ほど

「また、明日ね」といいながら、
ほんの少しだけ、これが最後かも知れない。と思うようになった。

今日、3月11日は、それを見つめ直す日だ。
そしてこれは、私にできる「もしもの備え」でもある。

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