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仏教徒じゃないけど修行してます。

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生きるからには「徳」を積む。世と関り人と接しながら日々暮らす、社会の構成員の一人として、まあ当然のことですよね。 でも、「徳」って積めば積むほど「穢れ」も溜まっていくんですよ。 … もっと読む
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ペットロスに罹りました 3

久しぶりに記事を更新したと思ったらまたか?と思われると思われますが(日本語が変なのは気にしないで下さい)、3年連続で猫を亡くしました。 多頭飼いしている訳ではありません。常に2匹体制です。それでもこうも続くものかと慮ると、私はもしかしたら呪われた飼い主なのかも知れません。 ふざけていません。真剣に、もう私には猫を飼う資格がないんじゃないかと感じてしまうくらいに心は混乱しています。 前回、あの後で保護猫団体の代表に報告に行った際に、「新たな子を迎えてはどうか」と提案をいただき

ペットロスに罹りました 2

昨年の4月にも同じような記事を書いた記憶があります。あの時は引きずりましたね。あの記事を書いた後も長く。 その傷が癒えた頃の12月25日、新たな子を迎えたことはまだここには書いてませんでしたね。 たまたま縁あって、地域の保護猫団体が長野県の多頭飼育崩壊現場から救出して、一時預かりされてた推定3歳のメスの子を里子に迎えました。 推定3歳と言えばすでに成猫なんですが、体が小さく、甲高い声で鳴くさまは、子猫さながらでした。「ビビリで猫カースト最下位」との触れ込みでしたが、少しずつ

2022年最後の夏行(写真のみ)

3年ぶりの夏行(仮題)

私が年2回、「お詣で」と称して寒行をやっていることは、過去にレポート等も含めて書かせていただきました(尚、今年の二回目は祭礼中止のため参加できませんでした)。 その他に夏行などというものも行っていましたが、2020年、2021年とコロナ感染拡大の影響もあり、結局今まで1度しか実施できていませんでした。 ただ、今年は海開きもあったことだし、これは早々にやっておかねばと思い立ち、行って参りました。 私の夏行は、冬行と違い荒行ではありません。あくまで自分主導で、自分のペースで、

そういえば初めて書く「お詣で」レポ(一回目の3)

普段体を鍛えていない私、113段の石段を駆け上るだけでも相当消耗しています。 それでも勢いに任せて、手水を上半身に浴びせ(中には手水鉢に飛び込む人もいます)人のひしめく本堂へ。 この時点ですでに本堂は過密状態なんて年もありましたが、今年はコロナ第6波の影響もあり、人が密集しているのはせいぜい綱周辺くらいでした。これは逃せないチャンス! 綱を昇るなら、壇上に上がって綱目掛けてダイブするのが一番いいことは、これまで5回の経験で学んでます。ただこの壇上、いつもなら人が押し合いへし

そういえば初めて書く「お詣で」レポ(一回目の2)

何とか2年ぶりに到着しました。柳津町。待たせたな圓藏寺! 例年は、駅からてくてくと町の目抜き通り(とはいえ車がようやくすれ違えるようなセンターラインのない山道)を歩き、名物の「あわまんじゅう」をいただいて、まずはお寺に挨拶のお参りをしてから宿へ向かうんですが、今年はそんな余裕は一切ありません。 おまけに今年はコロナ感染対策のため、観光案内所で参加手続きが必要になります。ワクチン接種証明を見せるか、抗体検査をその場で受けるか。 そして誓約書への署名。参加者証がわりの水色のリス

そういえば初めて書く「お詣で」レポ(一回目の1)

このマガジンの執筆を始めたのが2019年だったのですが、そいや2020年に行った「お詣で」のレポートを書いていませんでした。 昨年はコロナ感染拡大のため、一度も行くことができず、「動かない」ことに徹せざるを得ませんでしたが、今年は例年通り、一回目のお詣でに行ってきましたので、ここで報告させていただきます。 私が年の初めに最初に体を張って、自分の魂をさらけ出す場は、「七日堂裸詣り」です。極寒の奥会津、柳津町です。 ここに「福満虚空藏菩薩圓藏寺」という歴史の古い寺があり、本堂の

穢れを溜めながら楽に逃げる

突然ですが、先日「非常に不愉快な出来事」がありました。明らかに私に落ち度はありません。でも、相手を責めることは諦めました。 その相手は、元々「誠実さ」が欠如した人であり、何の悪意も感じることなく、息をするように人を欺くことができる人だったのです。だからこの裏切り行為を想定できなかった私が悪いのでしょう。 と思えば、穢れはどんどん溜まっていきます。 本当は厳しく責め立てたい。うわべだけでない誠意ある謝罪を求めたい。あわよくば賠償させたい。それが本音です。 何があったか、あえ

動かなかった2021年

今年の初め、修行は「動かない」、「形に残さない」と誓いました。 恒例の「お詣で」もありませんでした。 だから、思い出らしい思い出もなく、ただ時が過ぎゆくのをじっと忍ぶような一年でした。 失うものはありました。その代償として得るものはほとんどありませんでした。強いて言えば「時間」くらいでしょう。 そして、余りある時間を有効に過ごしませんでした。 体調の悪さを言い訳にして、莫大な時間を無駄にしてきました。ひたすら怠惰に。 「徳」とは程遠い場所にいました。徳を求めなくても、「穢

ペットロスに罹りました

いつか「この日」はやってくるとは頭では思ってました。 修行は、ある意味その備え(覚悟)としてもやってきたと思っています。 精一杯愛情を注いできました。だから「愛してきたこと」に悔いは一切ありません。 でも、すぐそこに「いる」のと「いない」のは、何だかんだ大きく違います。 魂は確かに「いる」んでしょうね。そして今の私の一挙手一投足を見守っているんだと思います。 でも、動物とのコミュニケーションで大事なのは、スキンシップです。肉体がなくなると、それは不可能になります。

今年の修行について

この記事を読んでいる方はご存知かも知れませんが、毎年私はこの時期に二度、「お詣で」と題して一年の修行の火蓋を切っています。 はい、例の、寒空の中を肌を晒してってやつです。 でも、今年はそれがありません。私が参加する行事が、ことごとく新型コロナの影響で中止になっているからです。無理もありません。密になりますから。 たとえ地縁のない地域での行事とはいえ、それは私にとっては大事な「お詣で」です。自分が心身ともに、天地人に恥なく一年過ごしてきたことの報告ですから。 丁度今の時

何にしても「きっかけ」は些細なことで、その些細なことが「個の自分」に突き刺さるのであって

最近、私の身辺にいろいろなことがあって、このマガジンの更新も前回から随分間が空いてしまいました。 さて、私は「会社員として生活をひたすら安定させる」生き方を捨て、「自分を自分として、悔いなく生きる」ことを選択しました。そこには当然、「魂の在り方」という課題がありました。 私なんかただの凡人ですからね。「煩悩」とか「よこしまな動機」に埋もれて行動しているようなものです。立派なものなどひとつとしてありません。 そこで、件の友に、なんの遠慮もなく聞いてみました。 「ふんどし

最初に得た友の話

私が人生の断捨離をし、心身軽くなった頃から、私の「価値探し」が始まりました。 断捨離とはいえ半世紀の人生、完全にゼロリセットされる訳ではありません。歩んできたベクトルと、それにともなって自然と自分に吸い付いてきた最小限の要素は、「個性」として残ります。 それでは、「個性」と何とをコラボさせたら「価値」になるのか。 自らの足で探しに行って、機会を見つけては徒労に終わり、その幾度とない繰り返しで疲弊しかけていたある日、ネットで見かけた、とある不思議な行動をする人のことが、妙

本当の「現実」って?

前回の更新から随分間が空いてしまいました。すみません、頑張ります('A`) 前々回、私は「時間」の呪縛から解き放たれたお話をしましたが、その解放によって、私は常に、「『今の自分』に何が必要で(足りていなくて)、何が不要なのか」という二択を自分に強いるようになりました。  ・ 楽か、きついか  ・ 面白いか、つまらないか  ・ 心躍るか、空しさだけが残るか  ・ 心地よいか、苦痛か  ・ 美しいか、見苦しいか  などなど。 すべて、「今(その時)の自分」の価値観