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声が‥でない

自由に喋れなくなってしまった社会生活

2022年私はアレルギー性の咳、声枯れを何度も繰り返し。声出なくなることも多くなり、長年勤めた仕事を退社することとなりました。

コロナ禍で咳がとまらない状況で社会に出るのは冷たい目に晒され、咳を我慢すれば余計に息が苦しくなり呼吸することが辛い時期もありました。
呼吸困難で酸欠で頭痛、息ができなくなり救急車のお世話になってしまったりしました。
コロナ禍咳き込みがとまらない人を見るにすごく冷たい目で見る人もいる。
『そんなに咳が出るのに外出しているなんて何考えてるの?』というような刺すような眼差し。
心苦しい、声が潰れてでない、声を出すのが苦しい‥そんな状況でした。

思い出すのは 場面緘黙症で「喋れないこと」に苦しんだ記憶
みんなが当たり前にできる会話がなぜか自分だけできない‥つらく苦しい記憶。

場面緘黙症を克服のために荒療治として営業の仕事を10年以上頑張ってきました。失敗を重ね。反省を繰り返し繰り返し〝圧倒的コミュ障〟の壁を破り
絶対に人並みの社会性とコミュニケーション力をつけると必死だった。
いつしか人とコミュニケーションに対して割と積極的でアグレッシブなキャラクターへと人に元気を与えられる気づけばポジティブキャラとして定着していた。
営業で関わったお客様から
〝Makoさんが担当だった頃が一番楽しかった〟
〝担当変わってもずっとうちはMakoさんの顧客だよ〟
〝あなたのお陰でうまくいった〟
自己肯定感が地を這うが如く低いどころか地下深く深くビクビクしていきていた私に有難すぎるお声を沢山いただくことでようやく人間になれた気がした。

緘黙症で声がでなくて四苦八苦する姿をよく知っている地元の同級生からしたらびっくりすると思う。

周囲から元気をもらえる。
勇気がもらえる。
安心感、癒されるといわれることも多くなって、いつしか自信を身につけていた。堂々と自分を表現できるようになり、自信をなくした人を見つけたら励ませる元気付けられる。曇った顔が腫れる様子をみてそしてまた自信になった。

しかし、この後に及んで自由に会話ができなくなり、
人に会いづらくなり窮地に立たされることとなりました。

何度も検査をしました。喉も肺もなんの問題もない。
咳止めの薬はたくさん試したが治らなかった。なんらかのアレルギーが原因ということがわかりました。咳止めの薬は効かずアレルギーを抑える薬で完全したからです。
おそらくコロナで消毒液など化学薬品が大量に散布されるようになったことが一因かもしれません。オフィスなど公共の場に陽性者が出た場所を消毒するときにはかなり高濃度の消毒液が散布され数メートル先が深い霧のようで見えなくなるそうですね。
逆に散布されていない山や広い公園、自然豊かな場所ではアレルギー反応は起きないのです。

場面緘黙症

ところで場面緘黙症というものをご存じでしょうか。

場面緘黙症とは | 日本場面緘黙研究会

学校で毎日誰とも一言も話さない(話せないこと)は家族へは内緒でした。ただちょっと人見知りしてしまうだけという程にしていました。所謂母親は毒親タイプで「子は自分の思いに従え、従うべき」という思想の人、ずっと愚痴ばかり、〇〇が気に入らない△△が嫌だと一方的に話すので子供の自分が学校でどう過ごしているかなどは聞かれることはまずなかったので内緒にしておくのも難のないことでした。
自分が悪いことをして怒られたことは覚えがない、親が気にいる通りの行動ができないことでよく怒鳴られていました。
怒り、ヒステリーは反論すると余計激しくなるので毎日毎日、1時間以上はとりあえず母の話に合いの手を入れる。母の感情が落ち着くまでひたすら頷き続ける。
学校では一日中誰とも会話できないのが当たり前だとしても難なく隠し通すことは容易でした。だって学校での様子を母が私に質問することはないからです。
その症状ゆえ、イジメには発展しなかったが揶揄いなどはあり、喋れないしゃべっても消えそうな小声でプルプル震える有様をクラスメートから
「変態障◯者」とあだ名をつけられた。
とても嫌でしたが、でもそんなことは家族にはいうわけがない。
悔しかったが自分の問題は自分で考える人には頼るものではないと自然に身についたのかもしれない。
厄介だったのは私の暮らしていたのはかなり田舎で一学年の人数が少なく幼稚園から中3までクラス替えが一度もなく、クラス替えすればリセットできる。というものでもなかったので長年定着した「喋れない子」の壁を打破するのは容易ではありません。小さな村ですのでクラスメイトの親兄弟、住んでる場所や勤め先までみんなわかってしまうような環境です。

なんとか自分なりに研究もしました。
同級生たちも揶揄いという名の応援である意味背中をおしてくれていた。応援だったと気付くのは中学卒業してかなり経ってからですが‥。
形式的に側から見ればイジメにも見える、机蹴られたり、ノートや教科書取られたりですが『イジメ』ではなく『応援』として消化しようと思えばできる範囲です。

「子供が場面緘黙症で悩んでいる親御さん。ご自身が緘黙症で悩みサポートしてくれる家族がいる方も多いかと思います。
私は逆に親の家族のサポートがなかったからこそ頑張れましたし、自分なりに知恵を絞ることで打開したからこそ、できた折れない自信も得ることができました。

親御さんがすべてサポートしなければ!と気を負わなくてもいい。
目に見える変化がなくとも焦らないでください。

少年少女たち、勇気を持ってください。
誰かのせい環境のせいにけしてしないで。
これはあなたが乗り越えられるものだから与えられた試練であり、強い大人になるためのステップです。
乗り越えた実績は財産となりあなたを満たすでしょう。
頑張るとは苦労をすることではありません、できないかもしれないでも1%でも可能性あれば勇気をもってやってみること足を踏み出してみることだと思います。
目に見える成果はすぐ出ません。

全然でません。

だからといって失望しないでください。
何年か経って成長に気づけたらそれでいいんです。

会話ができない。みんなのように弾むように会話を楽しみたい。
でも、私は声を発そうとするとでない。ようやっと小声でボソボソ、手首や、足がプルプルと震える。
「ごめんね」「ありがとう」すら言えなくて‥いつもひとりぼっち

いつもモジモジモジモジモジ(心臓ドキドキバクバク)
手足がガクガクブルブル
うまくできない自分が歯痒い。

そんな奴は普通ならイジメの対象になって当然。
そうならなかったのは同級生たちの寛容さだった。
本当にど田舎で育てたことは幸運だった。

イジメられないけどみんなの輪の中には入れない私は図書館で時間を過ごすことも多かった。会話の練習トレーニングのためラジオをよく聞いた。ラジオの方が会話のテンポ、リズム、間合いが視界がないことにより感じ取りやすく、テンポ、間合いリズムを耳で感じ何度も何度も普通に会話できる自分を想像しシュミレーションを繰り返し繰り返し、毎日毎日続けていた。
小学校のころ七夕の短冊に「普通になりたい」とガチで書いた。
普通にしたいのに体は震え口が動かなくなるんだ。
それが緘黙症。
小学校高学年くらいの時は発言するたびまずは深呼吸してからでした。
今考えればそれを笑ったりバカにしたりする子はいなかった。むしろ喋れたら〝できたね〟〝いいじゃん〟賞賛してくれた。

泥臭くカッコ悪いのを許してくれた。

(泥臭くカッコ悪くても許された環境が、後に泥くさドブ板営業に真っ向勝負できたかもしれない→自分が恥かいてもカッコ悪くても熱意が伝われば邪険にされないって感覚を覚えてたのかも!)

恵まれていたんだと心から思う。
当時はそうだとは気づきさえしませんでした。自己肯定感の低さ故迷惑をかけている。いつも時間をとらせてもうしわけない。私なんかが場の空気変えてしまい申し訳ない。
ただただ消えてしまいたいと思っていた。

地元を出てからも緘黙症の闘いは続いた。長い期間だったため別の弊害もあった。極端な自己肯定感の低さだ。友達の輪の中でも自分がいるだけで場の雰囲気を悪くしているような気がする。自分の見た目がものすごい醜悪であり関わる人を不快にさせていると思い込むこともあった。これは周りにいる友達など『そんなことはない』と言われても受け入れられないのです。ものすごく被害妄想もあります。
友人の輪の中にいても手首が震える。悟られないように隠す‥。
友達と歩いていても真横に並んで歩けず、一歩下がって歩くものだから逆に恥ずかしいからやめてくれと言われたりした。でも対等であってはならないと思い込みで友達の真横に並んで歩くことができないんです。
自己肯定感が低いすぎて、できるはずのこともできなくなったり身づからチャンスを逃すことも多かったと思います。

当たり前だがすぐには改善しない、少しづつ少しづつ、自分なりに考え、自分なりに挑戦し克服してきました。

ようやく自信をえて大人になり客観視できてはじめて、
〝あゝ私はものすごく恵まれ、助けられてきた〟


けれど、なのに、また声が出なくなった。

20年以上の努力が崩れ去りそうな気持ち、応援してくれた人たち支えてくれた人たちに申し訳ない気持ち。不安‥。
つまり脳の機能のどこか緊張などで声がでない。話せないというなんらかのメカニズムが発生しやすい体質であることは確かだと思う。
そうか 
元々 私の脳の構造はそうなっていたんだ。

「ケイガン(Kagan 1989)は、乳児の気質に関する研究の中で、見知らぬ人や慣れない%の子どもがこの気質を持つグループに属しており、近年の研究結果によれ状況に適応するのに時間がかかる乳児を”行動抑制的”としています。全体のば、”その傾向は生涯続く”ということが示されています

noteをはじめた

それは声ができなくてもできることが欲しかった。せっかく〝推し〟ができたけど大勢人が集まるところへは行けない。現場にいって応援できない。

でも何かをしたい!
なんとかして応援したい!
それに皆さんのレポート読むだけでも充分楽しい!!

さまざまな興味のあること好奇心がわく記事を読み自分なり感じ方を整理してインプット気軽にアウトプットを楽しむことができる。
知識を深めることでもっと沢山のことを人に伝えたくなる。
感動を共有したくなる。まだまだ文章をネット上に上手に載せることは不慣れで下手くそ知識不足です。とても上手で才能溢れる方の作品に出会うたびとても嬉しい気持ちになる。

アレルギーを抑える薬を飲むことで日常生活に支障なくなり、一時的には仕事復帰もした。
だけど薬を飲まないとできない環境で仕事をすべきか?
どこか誤魔化しているような気がする。

自身の体質、気質に合わせた生活をすべきではないか。

友人に幼少期からアレルギーに悩まされたため、自身でさまざまな研究、勉強をし改善してきた子がいます。その彼女にも相談したら、薬で誤魔化しても完全できない。環境や食べ物にきちんと向き合わなきゃ、進行するばかりだよ。一時的によくなっても軽く考えたら悪い方にしかいかない。

確かにその通りだと思う。
生まれ持った咎なら、それと戦いやっつけよう!なくそう!とするのではなく、そいつとうまくやっていくべきなのだ。
他の記事にも何度も書いていますが、陰陽思想やら中庸の考え方陽の中に陰あり、陰の中に陽あり、敵の中に味方あり、味方の中に敵あり。バランスをとることが何よりであると。

もしかしたら、この先本当に会話を楽しむ自由がなくなってしまうかもしれない。心豊かに生きていけるスキルと場所が欲しいと思ったのです。
これまでの積み重ねを水の泡にしない。
人魚みたいに泡になって消えるなんてそんなふうにはならない。

思い切って一度無職になってみることを決めました。
これからは子育てしながらたくさん勉強したりしたいと思います!!

コワ過ぎるぜBabys‥もっと世に晒されてしまえ!

🌊うーみーはひろいーな♪おおーきーなー♪いってみたいなATEEZの現場🌊

長くなってしまったのに最後まで読んでくださり😭
ありがとうございます✨✨✨

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