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脅迫は犯罪ではなかったか


息子のサッカー部の朝練は絶対に遅刻できない。
なぜなら時間に遅れると連帯責任で、その学年のメンバー全員が学校の周りを何周も走らされる羽目になるからだ。
もちろん息子はそうならないように必死に起きて学校へ行く準備をするのであるが、このルールには私も遠からず関わってくる。子どもの足を引っ張らないよう何が何でも、死に物狂いで時間内に朝ごはんを用意し、お弁当を作り上げる責任があるのだ(ハァハァ……)。
遅刻しない、時間を守るというのは、社会人としての当たり前のマナーなのはわかる。わかっているさ。
でも、この「連帯責任」という古風な掟に、思わず「軍隊か……」とつぶやかずにはいられない。
どうやらこれは先生ではなく、上級生同士で話し合った取り決めらしいが、それでも個性を伸ばすとか、個人の尊重だとかを口では言っている教育界において、いまだこんな集団主義的なルールは許されているんだなぁ、と苦虫をかみつぶしたような思いでいる。

「ルールをを守れ。さもなくば周りが迷惑、いやそれ以上に辛い思いをするぞ」という考え方。
確かに1人が問題を起こすと、みんなに迷惑がかかるというプレッシャーは、人を管理するのに手っ取り早い絶好の手段かもしれない。
でも、自分が遅れたことにより周囲の人々の作業が滞るならまだしも、懲罰を課せられるのだから、これって要するに「脅し」だ。
関係のない人たちの幸福をたてに、言うことを聞かせようとする脅迫行為ではないのだろうか。


今、巷ではピエール瀧の過去の作品を抹消する・抹消しない、という議論に沸いている。彼の出た作品をすべてこの世から取り除いた場合、要するにまったく罪のない製作者や共演者、その他たくさんの人々が不幸になるわけである。
「薬物はやるな。みんなに大迷惑、いや大損害を与えるぞ」と言うのは、無実の人たちの幸せをたてにした脅迫と違うのか。
「犯罪の抑止力にするためにも、過去の作品は全て回収すべきです」という考えは、これに当てはまるよなぁと思いながら、話を聞いている。


そして同時に、書籍や音楽、映画って抹消しやすいよね、とも思う。
「その作品を観たり聞いたりしていると、その犯罪を思い出して不快だ」という意見。そりゃ人間だもの。思い出しちゃうのは否めない。

でも、仮に、仮にですよ。
たとえばiPS細胞ぐらいの、世界の人々が大勢助かるような世紀の発見をした研究者が、もし薬物に手を染めてしまったら、その大発見は取り下げるのだろうか。医学の大発展はストップせざるを得ないのか。
薬物なら生ぬるい。もしその研究者が殺人、強姦、強盗を犯した場合は?
「この治療を受けるとあの研究者を思い出して不快です。治るものも治りません」なんていう患者の発言はまかり通るのだろうか。
あるいは、もし仮に。とあるオリンピックスタジアムの設計者が薬物に手を染めた場合。あまたある過去の建築物は回収されるのだろうか。スタジアムも取り壊すのかな。社会からなかったことにしてしまうのだろうか。その人が殺人を犯したら?
「このスタジアムを見ると遺族が辛い思いをするから、撤去してください」という発言は出るのだろうか。
もし仮に。カルロス・ゴーンの罪が確定したら、日産の車は今後販売中止になるのだろうか。
日産スタジアムでやる試合の話をしただけでも、サッカーのコーチと「そういえばゴーンって……」と思い出してしまい、あの事件に話が飛んだものだったけれど、スタジアム名だって変える?  ……変えないよね。
今回ゴーンは収賄容疑だが、もし殺人級の容疑でも間違いなく日産はお取り潰しにはならない。

その線引きは何なのか、と問えば。それはズバリ回収のしやすさ。
そうなんでしょうね。そんなもんなんでしょう。
でもそれって安易だし、弱いものいじめだ。回収しやすいものいじめだ。社会に不利益を与えないものなら排除OKという、差別的ないじめだと思うのだ。

けれども、今回ナゼその回収しやすい彼の作品群について、問題になっているのかというと。容疑者が人気者で、彼が出ている人気作品を排除にかかると、視聴者に不都合が出てくるから。
私だって大好きな『あまちゃん』が観られなくなるのは、嫌だ。
世間も、今回はいろいろと困るから考え直そうよ、と言っている。
議論を深める絶好の機会だとは思うが、やはり人は痛い目に合ったり自分に利害が及ばないと動かないという鉄則も、きちんと踏んでいるのであった。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️