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トランスジェンダリズム宣言

本書は、米沢泉美編著『トランスジェンダリズム宣言』、第1章「トランスジェンダー概論」の紹介である。現在、トランスジェンダーに関する様々な論議が巻き起こっている中、ぜひ参考にされたい。なお、本稿は20年前の発行であり、現在優れた論考も出されているが、基本的な論点は提示されていると思う。
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まえがき

  
 男と女。男性と女性。人間にはこの二種類の性別があり、人間社会はこの両者の関係から成り立っている、と思われている。そしてほとんどの人にとっては、自分は男なのか女なのかは「考えるまでもなく明らかなこと」である。
 しかし、この世には、そんな「アタリマエのこと」について悩み、また違和感を持つ人が存在する。それがトランスジェンダーである。
 ここ日本では、これまで、ニューハーフ、「性同一性障害」などの存在がマスメディアで広められてきた。その結果、「性別を変えている/変えたがっている人がいるんだな」という認識が、少しずつではあるが広がってきた。
 しかし、ここで言う、「変えている/変えたがっている」とされる「性別」とは、いったい何なのだろうか。そして「変えている/変えたがっている人」は何に悩み、何に困っているのだろうか。それらの人たちは、どのような処方箋を求めているのだろうか。
 これらは、自らの性別に疑問を持たない多くの人にとって、とても理解しづらい。
 実は、ニューハーフや「性同一性障害」といったキーワードは、そんな理解しづらさを、一面的な見方によって「見えやすくした」ものに過ぎないのである。
 本書は、「性別」という語がもつ多義性をふまえ、ニューハーフや「性同一性障害」といった概念でくくることができない、トランスジェンダーという「生」を概観することを目標として、主にトランスジェンダー本人たちの筆によるものとして編纂された。
 第一章では、トランスジェンダーを理解するために、セックスとジェンダーの分離、ジェンダーアイデンティティ概念について触れ、トランスジェンダーとは何者なのか、そしてトランスジェンダーたちは何に困っているのかを概観する。
 第二章では、トランスジェンダーが直面する諸問題について、具体的な考察を行っている。
 第三章では、日本のトランスジェンダー史と、日本に比べて時代的に「先行」して諸問題とぶつかってきたアメリカのトランスジェンダーについての歴史・思想を紹介した。これらには日本語文献として初出となる指摘も多数含まれている。
 第四章では、トランスジェンダーは何を目指すべきか、トランスジェンダーが生きる社会のあり方とは何か、についての提起を行っている。
 そして第五章には、03年1月25日に、本書執筆者たちによって京都で行われたトークバトル「トランスジェンダリズム宣言」を採録した。
 またこれらとは独立して、当事者・支援者によるコラムも採録した。関西における先駆的実践、セックスワークをめぐる問題、戸籍や医療の問題など、多岐にわたっている。
 
 この本の制作にあたっては、各執筆者のみなさんからの多大な協力をいただいた。打ち合わせの電子メールでは激論もたたかわされた。その結果誕生した本書は、とりわけ、編著者以外の執筆者の分析力と筆力により、すばらしい内容となったと自負している。各執筆者のみなさんには何度お礼を言っても言い足りないほどである。
 また、第五章に採録したトークバトルのスタッフとして、神戸さいこさん、池田百合子さん、東ジュンさんに大変お世話になった。ここに感謝の意を表したい。
 本書は、トランスジェンダーたちが、トランスジェンダーたちとして声を挙げていく、その第一歩となるだろう。ぜひ、各論に対してのご意見、反論などをお寄せいただきたい。そして、さまざまな角度から私たちのトランスジェンダリズムを深化させ、私たちが生きやすい、すべての人たちが生きやすい社会を目指していきたい。
 公式サイト開設! http://tgism.info/
                 2003年3月31日 米沢泉美
                                         
 

第一章 トランスジェンダー概論

                           米沢泉美
 
 ●私はトランスジェンダー
 
 筆者はトランスジェンダーである。
 トランスジェンダーとは、「ジェンダーを変更して生きる人」「ジェンダーを変更したいと願っている人」のことである。
 より細かく言えば、「ジェンダーアイデンティティがセックスや与えられたジェンダーと一致しなかったり不安定だったりする状態を、ジェンダー表現を変更することで解消しようとする人」である。
 これを筆者について具体的に言うならば、筆者は生まれたときは男性だったが、現在、女性として生活している。
 と、ここまでお読みいただいて、ようやく読者にも「あぁ、あなたは性同一性障害ですね?」などの具体的なイメージがわいたかもしれない。最後の具体例がなければ、「なんだこいつ?」と思われたかもしれない。
 確かに筆者は、「あなたは性同一性障害です」という、精神科医による診断書をもらったことがあるので、「性同一性障害なんですね?」と問われれば「ええ、一応(笑)」と答える。
 しかし筆者は、まじめに自分を紹介する場合、いつでも真っ先に「私はトランスジェンダーです」と説明することにしている。
 「性同一性障害」という語は単なる医学上の診断名であり、今の時代・今の社会を生きている筆者の性別のあり方、生き方を説明するにはきわめて不適切な用語である。一方、トランスジェンダーという語には、「性別」についての、社会的、文化的、身体的、……あらゆる多義的な概念が含まれている。
 筆者の「生」を説明するためには、〈トランスジェンダー〉を使うしかないのである。
 以下この章では、トランスジェンダーという概念を説明するため、ジェンダーとは何か、ジェンダーアイデンティティとは何かについて触れていく。そして、トランスジェンダーはどのような困難を抱えているのか、トランスジェンダーは、それと「近い」「似ている」と考えられているさまざまな概念とどう異なっているのか、について概観していく。
 
  ●セックスとジェンダー
 
 私たちの社会では、「男」と「女」を区別することがアタリマエのように行われている。戸籍や住民票やパスポートには性別が記載され、トイレや浴室は男女別に分かれ、メディアでの人物紹介ではまず真っ先に男女の別が紹介される。私たち自身、意識的・無意識的を問わず、相手の性別をしばしば話題の前提にしてしまう。
 これらの中には合理的理由があるものもあれば、性差別に基づく不当なものも、性差別を「防ぐ」ために必要なものもある。しかしこれらには、「男とは何か」「女とは何か」という性別・性差の定義や意味を厳密に考えず、「説明不要の前提」としてしまいがちである、という共通の面がある。
 そしてこのことは、「男にはペニスがあり、女にはヴァギナがある」「男は働き、女は子育てをする」「男は論理的で、女は情緒的」等々の、「男女の性差についての常識や偏見」を厳密に検討することを難しくもしてきた。
 現代の学術的な、また専門的な考察では、人間の性別・性差を二つの異なる概念、〈セックス〉と〈ジェンダー〉で切り分け、このあいまいさの克服を試みている。
 セックス(sex)とは、ここでは性交渉のことではなく、「肉体的性別」「解剖学的性別」「生物学的性別」を指す。先の例のうちの「男はペニスを持ち、女はヴァギナを持つ」における「男」「女」はセックスによる区分である。具体的には、性染色体、内性器、外性器、脳の形状などに、ほぼ人類を二分するオス・メス二種類のパターンが存在していることが自然科学的に明らかとなっている。またはっきりした二分にはなっていないが、体の各部位の特徴にもオス・メスにおいて差異がよくみられる。
 一方のジェンダー(gender)とは、「セックス」以外のあらゆる性別・性差の概念を指している。「女性はスカートを履き、男性はスカートを履かない」「男性のシンボルカラーは青、女性のそれは赤」などは典型的なジェンダー概念であるが、「男性は肉体労働に向き、女性は向かない」「男性は労働、女性は家事」「男性は論理的、女性は情緒的」など、社会とのかかわりにおける「各性の役割・特性」に触れる場合の性別・性差もジェンダーである。
 かように多様なジェンダー概念だが、それが「社会とのかかわり」で決定される、という点は共通している。
 そのため、ジェンダー概念は社会の変化とともに大きく変化する。服飾はそもそも時代・地域によって大きく変わる。「女性が肉体労働に不向き」という現代社会での「常識」は、ここ日本に限っても、戦前の農村部において成り立ってはいなかった。「労働と家事」の区分も大きく変わりつつあるし、シンボルカラーの区分などは既に現代日本の若者の中では大幅に衰退したと言ってよい。
 セックスとジェンダーを分離することで、性差の社会的意味は考えやすくなった。そしてその最大の成果は、男女差別が社会的問題であり、その解消を目指すのが民主主義社会の責務である、とされるようになったことである。さらに、このことを女性の立場から捉える女性学=フェミニズムが成立したことも大きなトピックだった、と言ってよい。
 
  ●社会的・個人的・制度的ジェンダー
 
 しかし、女性差別とその克服という視点からジェンダーを語ることは、ジェンダーの持つ多義性のうちの一つをクローズアップし、他の概念への直感的理解を遠ざけることにもつながってしまう。
 前項に挙げたジェンダー概念の例は、すべて、「男性/女性はこういう傾向を持つ」という社会通念である。また、一部の人にとってはそれが「男性/女性はこうあるべき」という道徳の問題になったりもする。しかしこれらは、ジェンダー概念のうち、「他者がどうか」「統計的にどうなのか」「社会通念・道徳としてどうか」という観点から見たものに過ぎない。
 一方、「自分は男性だ/女性だ」という自己認識は、社会とのかかわりによって意識・判断されるものであり、やはりジェンダーの一種である。また、「自分は男/女だからこうする」という行動・表現の選択も、社会の中で行われるものなのでジェンダーである。これらは、「自分がどうある/するのか」という、自己の問題である。
 また、出生証明書や住民登録など、権力システムが管理する性別情報がある。これらは一見セックスにも見えるが、それが社会的に使われるために取得・管理されていること、またセックスが男女に完全には二分できない(後述)にもかかわらずこれらの性別情報が男女に強制的に二分されてしまうことから、ジェンダーの一種であるといえる(なお、セックスについても、「社会との関係で知覚・認知され、その定義も時代とともに変化しているので、ジェンダーの一種である」とする見方・思想は多数存在している)。
 
  ●ジェンダーアイデンティティ(性自認)
 
 多くの「普通の人」にとっては、自分が男なのか女なのかは明らかであり、日常生活の中でそれが問題となることはあまりない。……などと書くと、「いや、そんなことはない。自分は性別をしばしば意識させられる」という反論が寄せられるだろう。とりわけ、「女性であるが故に社会的に不当な扱いを受けている」人や、「男性であるが故に『男らしさ』を求められるが、それに応えられずつらい思いをしている」人にとっては「心外」とさえ思われるかもしれない。
 しかしこれらは、「自分が男性なのか・女性なのか」という意識とは微妙に異なる問題である。
 これらの感覚は、社会の中で男女に振り分けられ、社会から求められる「男らしさ」「女らしさ」(これをジェンダーロール=性役割と呼ぶ)と自分の行動・表現が合致しないことに対しプレッシャーを受け、「社会の中での自らのジェンダー」を自覚させられたものである。そこで感じる、「くやしい」「なぜなんだ」などの認識(言うまでもなくこれらは正当である)は、自らの性別に押しつけられた役割や社会的位置の不当性に対して向けられたものであり(もちろんこれらを自発的に拒絶することは完全に正しい)、自らが女性/男性であること自体に向けられているのではない。場合によっては、差別を受けた女性/男性が「なぜ女性/男性に生まれてしまったのだろう」と考えることもあるが、これとて「今生きている自分そのもの」に否定や疑問を抱いているのではない。
 さらに、ここで自覚させられる性別は、社会によって認証・管理され、他者との関係において把握されるジェンダーに基づくものであり、それは本人のセックスとほぼイコールである。このことは、多くの人にとっては「与えられたジェンダーロールを受け入れてしまう」根拠となってきた。また一部の人にとっては、セックスとジェンダーの差異を強く認識する根拠となり、性差別への抵抗・拒絶の動機となってきた。そしていずれのケースでも、自己の性別そのものに対する疑念は存在していない。仮に性差別を受けた女性が「男に生まれたかった」と考えたとしても、その思いの前提としての「今の私は女だ」という意識には一切疑いは持たれていない。
 しかし有史以来、古今東西の別なく、人類の中には「自分が男性なのか女性なのか」について不断に違和・不安を覚える人が、少数ながらも確実に存在してきたのである。
 例えば、男性として生まれ育てられたが、(A)「自分は女性である」「自分は男性ではない」という確たる意識を持っている、また(B)「自分は本当にオトコなのか?」という疑問が常に湧き出ている、などの状態にある人たちである(もちろん、「女性として生まれ育てられ……」という逆のパターンもある)。
 
  ●ジェンダーアイデンティティとトランスジェンダー
 
 これらの人々は、自分に押しつけられた性役割(そしてその役割を振り分ける「性別」は本人のセックスに基づいている)に対し、違和感や拒絶感を持っているが、その根拠は前項のケースとは根本的に異なっている。
 例えば、「自分は女性である」、または「男性だと確信できない」等々の意識を持っているにもかかわらず、「おまえは男性だから×××するべきだ」という押しつけが外部からなされる。あるいは、なぜか自分の体には女性器ではなく男性器がついている。これらの現実が「自分の自己認識と根本から衝突する」ために違和感・拒絶感を持つのである。
 この、「自分は男性なのか女性なのか」という、自己のアイデンティティにかかわる性別認識をジェンダーアイデンティティ=性自認と呼ぶ。そして多くの人々にとっては、ジェンダーアイデンティティは自明であり、かつそれはセックスと一致しているが、一部の人々にとってはこれらの不一致や不安定がある。そしてそれがアイデンティティにかかわる問題であるため、しばしば不断、かつ深刻な悩みとなるのである。
 先の例では、(A)は既に自己のジェンダーアイデンティティが確立されているが、それがセックスとは異なった性になっているケースであり、(B)は自己のジェンダーアイデンティティが確定できなかったり揺らいでいたりするケースである。
 そしてこれらの人々は、女性として社会生活を営もうとしたり、日常は男性として暮らしているが、ときどき女性として過ごす時間を設けたりする。あるいは、自分は女性でも男性でもない、自分は女性でも男性でもある、などの意識を獲得する、などのさまざまな様態で、自らのジェンダーアイデンティティを「具現化した」社会生活を営もうとするのである。これがトランスジェンダー(transgender・TG)である。
 自分のセックスとジェンダーアイデンティティが「異なっている」人が、自分のジェンダーアイデンティティに忠実であるために、ジェンダー差を「越境し」、セックスと「逆の」装いや生活を志向したり、ジェンダーそのものを「超越して」生きようとする。「トランスジェンダー」という語には、まさにこれらすべてが包摂されているのである。
 
  ●トランスジェンダーのいまむかし
 
 トランスジェンダーは、古今東西、常に存在してきた。これらの人は、セックスとジェンダーを分離する概念がない時代には、そして現代でもそういう思考をしない多数の人にとっては、同性愛者や「半陰陽」者(=インターセクシュアル、「両性具有」)と混同されながらも、おおむね「肉体性別を超えた人」という把握をされてきた。
 日本でも、「オカマ」の語源だと言われる江戸時代の「陰間」は、まさに「女性のジェンダー表現を行う男娼」という存在である。 
 これらはおおむね、人間は男と女だけから成っているという「男女二元論」を前提として、「それを超える人」として把握されてきたが、世界史的に見れば、中にはトランスジェンダーを「男でも女でもない」第三の性別として捉える文化も存在していた。ネイティヴアメリカンのベルダーシュはまさに「肉体性別と異なるジェンダー表現を行う者」という階層である。インドのヒジュラは、表向きはインターセクシュアルの階層(ただしカースト外の被差別階層)とされていたが、実際にはトランスジェンダーの「受け皿」として機能してきた。他にもタヒチのマフなどはこれにあたる。
 
  ●トランスジェンダーの「生」
 
 トランスジェンダーのうち、肉体が男性だがジェンダーアイデンティティが女性であるケースをMtF(Male to Female)、逆のケースをFtM(Female to Male)と呼ぶ。
 また、社会生活上のジェンダー表現をジェンダーアイデンティティと一致させている人、具体的に「女性として生活するMtF」「男性として生活するFtM」をフルタイムトランスジェンダー、またはフルタイマーと呼び、日常はジェンダーアイデンティティと異なる生活をしているが、ときどき一致させた表現を行う人をパートタイムトランスジェンダー、またはパートタイマーと呼ぶ。また、社会生活やジェンダー表現を変更しようと努めること、また変更中の過渡的な期間を、トランジションと呼んでいる。
 当事者に関する統計的・臨床的なデータは多くない。トランスジェンダーの「存在確率」すら、研究によってその推定範囲には大きな差があり、数万人に一人とするものから五〇〇人に一人とするものまで多様である。
 また、MtFがFtMよりもなぜか数倍多い、とする資料が多い。その根拠ももちろんわかっていない。
 そして、本人がジェンダーアイデンティティへの違和・反発を覚えた年齢は、必ずしも「物心ついてから」というわけではなく、思春期にそう思い至った人もいれば、成人後に気づく、という人もいる。
 そもそも、ジェンダーアイデンティティがどのようにして獲得・形成されるのか、についてがまったくわかっていない。これが「幼少時の養育時に獲得したものによってのみ決定される」という「後天説」については、否定されるケースも報告されており、学説としては有力でない。しかし逆に、最も有力な説とされる「ホルモンシャワー異常説」も、すべてのケースを説明できるものではない(後述)。
 なお、定義からすれば当然のことなのだが、ジェンダーアイデンティティはあくまでも自分の性別に関する意識であり、これは、恋愛の対象が男性なのか女性なのか、という性志向(セクシュアルオリエンテーション)とは無関係である。事実、男性として生まれ育ち、しかし自分は女性である、と考える人のうちの半数近くは「恋愛対象が女性である」とする資料は多い(筆者の周囲の当事者を見ても、この傾向は明らかに存在すると考えざるを得ない)。
 
 
  ●困難とその克服の「処方箋」
 
 トランスジェンダーは、なによりも自分自身の「生」そのものに困難を抱えている。
 まず、一部の当事者は、「他者に、社会に理解されない」という以前に、「自分自身が何者なのかがわからない」という、きわめて深刻な状況にある[先の例(B)が相当]。
 セックスは統計的・生物学的にオス・メスの二種類であり、ジェンダー概念もまた男性性・女性性という二種類を軸としてある。現在の社会は、あらゆる人がこのどちらかに分類できる、どこかに一本の線を引ける、ということを前提に成立している。ところが本人は、自らがどちらに属しているのかがわからないのである。まさに「アイデンティティ喪失」、いや、喪失するアイデンティティが「もともと確立されていない」という、いっそう深刻な状態である。
 このケースでは、アイデンティティを確立するための何らかのケアが必要とされる。
 なお、ケアの結果「自らのアイデンティティは肉体性と同じだった」という結論に至ることはあり得る。とりわけ、「性同一性障害」ブーム、と言ってしまっても過言ではない最近の風潮においては、ジェンダーロールへの違和や自らの性指向への「疑問」などから、ジェンダーアイデンティティが不安定な状態になっていることも少なくない。
 一方、このことが自明・確定的である当事者、すなわちセックスとジェンダーアイデンティティが一致しないことを本人が自覚しているケース[先の例(A)に相当]にとっては、自らのアイデンティティと逆の、あるいは異なるジェンダーが押しつけられる、という苦痛を不断に味わわせられることになる。
 このケースでは、ジェンダーアイデンティティをセックスに合わせるか、セックスをジェンダーアイデンティティに合わせるか、はたまた他者・社会に対して認知されるジェンダーをジェンダーアイデンティティに合わせるか、この三つしか処方箋はない(複数選択は可能)。
 しかし通常、アイデンティティはそれが強固であるからこそアイデンティティなのであって、確立されたジェンダーアイデンティティを他のものに合わせることには相当の困難をともなう(現代医学では臨床実験の結果、「変更を強く行うことはほぼ困難である」とされている)。したがって、実際に採ることができるのは、セックスを合わせる=医療により身体の変更を行うか、ジェンダーを合わせる=服飾などにおける「ジェンダー表現」を変更したり、社会生活上での性別を変更したりすることとなる。
 なお、「根本的な問題は、社会が二分されたジェンダーを『押しつけてくる』ことにある」と言うことはできる。しかしその分析は、今を生きている当事者にとってはさしたる意味をなさない。社会のそういう構造をすぐに変えることは不可能だからである。
 
  ●立ちはだかる障壁(1) ケアと医療
 
 さて、これら「処方箋」がそれなりに機能するのであれば、当事者が大きな困難を抱えていたとしても、それは「個人の問題」だといえなくもない。
 しかし、前項に挙げた方策は、そのいずれも、実現に困難が大きい。
 トランスジェンダーについて理解し、当事者にアドバイスを行う「専門家」は、日本では「性同一性障害」の医療に関わるごく一部の精神科医に限られている。しかし後述するように、「性同一性障害」という概念はトランスジェンダーの一部を指すものでしかない。医療の対象とされるのは「セックスをジェンダーアイデンティティに合わせる必要がある」ケースのみであり、それ以外のケースを含めて総合的なアドバイスを行う義務は医師にはない。トランスジェンダーに対する理解と対応が「進んでいる」他国では、このようなケースにはカウンセラーやソーシャルワーカーも含めた総合的なケアを行うことができるが、日本にはその体制はほとんどない。
 また、外科的にセックスを変更する場合(この中でも、外性器の再形成を行うものを性別適合手術〔Sex Reassignment Surgery・SRS、「性転換手術」〕という)、日本には母体保護法(旧優生保護法)二八条による大きな壁があり、医療の内容に大きな制限が設けられている。医療の提供をする機関が極めて限られていること、ほとんどの治療に健康保険が適用されないことも問題となっている。
 
  ●立ちはだかる障壁(2) 社会制度
 
 一方、装いを変えたり社会生活を「逆の性」で営んだりして、他者・社会に対してのジェンダー表現をジェンダーアイデンティティに合わせようとする場合、大きく分けて三つの障壁がある。
 まず一つは、「外見・容姿」の問題である。ジェンダーアイデンティティは内面の問題であり、本人の容姿=セックスとは関係がない。従って、体格・顔・発声などの肉体的な男女差により、トランスジェンダーであることを「見抜かれてしまう」ことがしばしばある(リード・read。逆に、「見抜かれない」ことをパス・passという)。これは社会的に大きな問題となる。その典型的な例は公衆トイレの利用だが、他にも温泉、水泳、スポーツクラブなど、着替えが必要な場では常にトラブルの原因となる。
 また、国家システムが認証する性別=制度的性別にかかわる問題がある。不必要と思われるところにまで性別の明示が求められる局面は非常に多い。印鑑証明書や選挙名簿、住民票や保険証などで性別情報がついてまわる。民間でも、就職活動で提出する履歴書のJIS規格には性別欄がある。これら制度的性別は本人の戸籍の記載によって強制的に決められるが、トランスジェンダーであることを理由とした戸籍の性別記載の変更は、現在のところ裁判においてほぼ全面却下されている。これらにより、外見・容姿の問題を一応クリアし、フルタイマーとして生活していたとしても、多くの局面でそれとは異なる性別情報を明示しなければならないのである。これがしばしば混乱を巻き起こし、また本人のジェンダーアイデンティティが傷つけられるという大きな問題がある。
 そしてこれら二つの要因が複合され、就労・就学にも大きな障壁が存在している。ほとんどの当事者は、制度的性別と異なった容姿であることなどを理由に、就労が極めて困難となっている。またそれ以上に厳しいのは、既に制度的性別によって就労している当事者が、中途でジェンダーを変更しようとする場合である。また就学においても、とりわけ「思春期」において制度的性別による区分を強制されるため、不登校状態になる例がしばしばある。
 
  
  ●立ちはだかる障壁(3) 他者との関係性
 
 もう一つ、当事者にとっての大きな悩みは、近しい人間関係における混乱である。
 考えてみてほしい。これまで男性/女性であると思っていた人が、突然「実は私は女性/男性でした。ということで、今後は女性/男性として接してください」と宣言したとする。読者は、この要求をすんなりと受け容れることができるだろうか。頭の中で「できる」と考えても、もし相手の容姿や振る舞いが本人の宣言とは逆の、元々知覚していた性別にしか見えなかったらどうだろうか。読者が相手の宣言と同性だとして、相手に以前の性別の性器がそのまま残っていたような場合、読者は同じ更衣室でいっしょに着替えをできるだろうか。もし読者のパートナー(恋愛相手)がそう宣告した場合、読者はそのまま愛情関係を続けられるだろうか。
 これらは非常に深刻な問題である。ほとんどの人にとっては、「ジェンダーアイデンティティの違和」という概念も、「ペニスのある女性/ヴァギナのある男性」という概念も、自分のジェンダーに関する知識・意識の中にはない。それが突然、相手の宣言一つで乱されるのである。赤の他人であればともかく、近しい関係の人からであれば、その「重さ」を突然強制されるのである。
 就労における当事者の問題には、この面も大きく働いている。すなわち、戸籍と同じ性別として就労していた当事者がそのまま社会生活上の性別を変更しようとした場合、職場の同僚や管理職が、あるいは企業にとって大切な顧客が、そのような事態をどう認識するか、という部分が最大の困難になることがしばしばあるのである。
 ケアや制度の問題は、それらを社会的に整備すればよいだけの話である(実際にはそう単純でないことは言うまでもないが)。しかし、当事者からそのような宣言を受けた非当事者は、当事者がこれまで、ジェンダーとアイデンティティの矛盾・不安定に悩まされてきたのと同じく、自らのジェンダー観を激しく乱されることになる。「当事者のジェンダーアイデンティティがそのまま認められるのに、周囲の非当事者のジェンダー観は認められないというのはおかしくないか」という異議が出ても「おかしくない」のである。
 
  ●「性同一性障害」≠トランスジェンダー
 
 さて、ここまで紹介してきた内容を読んだ読者は「何だ、それは性同一性障害のことではないのか?」と感じたかもしれない。
 しかし前にも少し触れたが、トランスジェンダーと「性同一性障害」はまったく異なる概念なのだ、と言える。いや、われわれ当事者はそう声高に叫ばねばならない。
 「性同一性障害」=GID(Gender Identity Disorder)は、精神医学によって規定された概念であり、おおざっぱに言えば、「自らの肉体的性別に対する違和を持続的に持つ者」とすることができる。
 これは、先の例(B)のケースの一部があてはまる概念であり、トランスジェンダー全体とそもそもイコールではない。
 また、「性同一性障害」は、医学倫理的にその存在が「必要とされた」ものであることにも留意する必要がある。
 近代医学の倫理では、たとえ本人が同意したとしても、「正常」な組織・器官を改造してはならない。これは、改造人間などを生み出さないようにするために必要な、また医師と患者の間の力学関係が必ずしも対等でなく「本人の同意」の客観性の問題も残ることから必要な倫理的「縛り」である。
 しかし、医療を望むトランスジェンダーの生殖器官は、生物学的には「正常」そのものであることが多く、生殖器の除去や再形成などはまさにこの倫理と衝突することになってしまう。
 そこでこれに対し、「これは精神的な疾患で、かつ精神の方を治療することは不可能なので、肉体の方を治療するしかない」という「論理」をつくり出すための「方便」が「性同一性障害」という「診断名」なのである。とりわけ日本においては、母体保護法(旧優生保護法)二八条が「故なき生殖器除去」を禁止しているという事実があり、この「故」を「ある」ものとするためには何らかの「診断名」が必要とされる、という事情もある。
 しかし現実には、たとえば美容外科という医療行為は、医療倫理で言う「患者のQOL(Quality Of Life・生活の質)の向上」にあたる、として認められている。本当に肉体的医療を必要とするのかどうかを本人がきちんと判断するためのケアが受けられることを前提にすれば、本来、トランスジェンダーに対する医療も、「QOLの向上」のための自由な医療が認められるべきであり、精神疾患としての「性同一性障害」という診断名を大仰に持ち出す必要などない、とも言える。
 また、この概念が「突出」することにより、医療を必要としていないトランスジェンダーと必要とする者との間に、あからさまな格差を生むことにも留意しなければならない。現実に、テレビドラマの影響などにより、トランスジェンダーという多義な概念が「性同一性障害」、かつ「かわいそうな存在」に一元化されてしまい、医療を必要としない当事者や「かわいそうに見えない」当事者が「心の性別が食いちがっているのではなく深刻ではない」と思われたり、場合によっては「劣っている」かのごとく扱われたりする事態が起こっている。また一方では、「普通の男性/女性として生きたい」と考えている当事者が、「性同一性障害」という「男でも女でもない」ような「第三の性」として捉えられてしまう、という、それはそれで不当な事態にもつながってしまうのである。
 
  ●トランスセクシュアルとトランスジェンダー
 
 トランスジェンダーという語は、誕生してからまだ二〇年程度しか経っていない。
 これに類似する概念の語として古くから存在してきたのは、トランスセクシュアル(transsexual・TS・「性転換症」)である。
 これは文字どおり、セックスを「トランス」しようとする/した人、という意味である。当事者の中でも、とりわけ、自らのジェンダーアイデンティティがセックスと反対の性で確定している人で、さらに自らの性器に対する強い違和を持つ人にとっては、現在の性器を除去し、ジェンダーアイデンティティと同じ性器を再形成することが最も重要な、焦眉の課題になる。これらの人は、セックスとジェンダーの「逆転」が誰からも明らかであるため、社会的にもその存在は認識されやすかったと言える。そして、それに対し、医学が関与を行うための診断名が「性同一性障害」として確立された。
 しかしここまで述べてきたとおり、ジェンダーアイデンティティのあり方は実に多様であり、医療を必要とするのかしないのかも人それぞれである。そしてこのことを、「医療を必要としない当事者」の側から「突きつけ」るものとして、「トランスジェンダリスト」という語が当事者によってつくられた。すなわち、「トランスセクシュアルではないが、セックスとは別のジェンダー表現をもって生きる」という意味である。
 それまで医療に「頼る」という姿勢だった当事者の中から、このような、自らの主体性を表現する戦闘的な宣言が発せられた意味は非常に大きかった。医療を必要としなかった当事者たちや、「性同一性障害」の診断基準に合致せず性別適合手術を受けられなかった当事者たちは、手術を受けられる/受けた当事者たちとの間に、「当事者間差別・格付け」とも言うべき構造を感じていた(そして一部の手術後の当事者も感じていた)。しかしトランスジェンダリスト概念によって、これらの当事者たちは「自己肯定」への道を開かれたのである。手術を受けないことも「多様なあり方の一種である」という認識を獲得できるようになったのである。
 その後この概念は、トランスセクシュアル一辺倒の見方へのアンチテーゼというニュアンスは残しつつ、トランスセクシュアルをも含んだ、包括的・総合的な、ここまで述べてきた「トランスジェンダー」へと変化する。
 ただし、日本においては、トランスジェンダーを「トランスセクシュアルでもクロスドレッサー(=トランスヴェスタイト、後述)でもない当事者」、すなわち「ジェンダーアイデンティティはセックスと逆の性別で確定しているが医療は望まない当事者」という意味で用いることも多い。特に、略語であるTS・TG・TVを用い、当事者を三分類するために使われることが多い。
 しかしそもそもこの三つのあり方は、排他的でもなければこの三つで当事者のすべてを包含できるものでもない。またジェンダーアイデンティティの微妙な変化に伴い、これらの間で「乗り換え」が起こることもある。
 本書は、そのような三分類法自体が上記のような「限界」を有しているものだと考え、特に断り書きのない場合、「トランスジェンダー」を包括的な広い概念として用いているが、当事者が「トランスジェンダー」と述べる場合はこの三分類法に基づいた概念である場合も多いことには留意されたい。
 
  ●クロスドレッサー(トランスヴェスタイト)
 
 一方、トランスセクシュアルの「対語」のような英単語として、「トランスヴェスタイト」(transvestite・TV)という概念が古くから存在してきた。これは「衣服を変える人」、すなわち、「ジェンダー表現を変える人」という意味である。日本語で言えば「異性装者」に近い。
 単に「セックスと異なるジェンダー表現を服飾で行う」ということで言えば、社会生活をセックスと異なるジェンダーで営むフルタイマーも、性別違和はあるが一時的に異性のジェンダー表現を行うことでその違和感を「解消」するパートタイマーも、性別違和は持っていない(と自分で確信している)が異性の服飾をすることが「好きだ」、または「性的興奮を覚える」という人も、宗教的・職業的理由で異性装をする人も、またいわゆるドラァグクイーン/ドラァグキング(「同性愛者は男らしく/女らしくない」という、性志向とジェンダーアイデンティティを混同した社会の偏見に対し、ジェンダーアイデンティティとセックスが一致している同性愛者が、敢えて異様なほどに異性性が強調された衣服をまとうことでそれを皮肉る、という表現方法が発端)もあてはまることになる。
 トランスヴェスタイトは、これらのうち、フルタイムトランスジェンダー、職業や宗教上での異性装、ドラァグなどを除き、「自発的に趣味・嗜好として異性装をする人」に対してのみ用いることが多い。
 もともとこの概念は、トランスセクシュアルを「性別の変更のための正当な医療」の対象とする場合の、「対象とはならない人たち」を指す概念である。
 しかし実際には、この中にも性別違和を感じている人は相当程度含まれている。また、ジェンダーアイデンティティがセックスと一致している、と本人は自覚している場合にも、これがその後微妙に変化し、フルタイマーやセックス治療へと進むケースも確かに存在している。
 これらの場合、この語が同じトランスジェンダーの中で格付けを行う(無論、トランスヴェスタイトは「格下」となる)意味を持つことは否めない。クロスドレッサー(Cross Dresser・CD)という語は、トランスヴェスタイトの持つこのような否定的側面を当事者が「拒否」するため、代わりに使われるようになった語である。
 
  ●ジェンダーブレンダー、サードジェンダー、「n個の性」
 
 ジェンダー表現やジェンダーロールが男女二つではっきりとは分けられないのと同様に、ジェンダーアイデンティティも男女二つではっきりと分けられるとは限らない。自分が男である/女であるということへの違和感は、必ずしも逆の性別であることへの確信にはつながらない。そして実際に、「私は男/女」という確信的な安定を得るのではなく、「時々男、時々女」という形=パートタイマーで違和・不安定を「克服」するケース、「自分は男でもあり女でもある/男でも女でもない」と割り切り、ジェンダー表現も男・女にとらわれず自由に行うケースなどがある。
 これら、男女という二軸のどちらかに「完全には」属さないケースについて、日本では当事者間でも一般的に使われているわけではないが、英語圏ではジェンダーベンダー(gender bender、性別を曲げる人の意)、ジェンダーブレンダー(gender blender、性別を混ぜる人の意)などと表現されている。日本では、三橋順子が〈インタージェンダー〉という語を提唱し、またインターセクシュアルの当事者、橋本秀雄が〈性のグラデーション〉概念を提示している(なおこの概念は英語圏におけるgradationがgrade[階層]の派生語であり、男女間に価値的な差異があるように聞こえかねないことから、性のスペクトラム[gender spectrum]と言った方が適切かもしれない)。
 また、フルタイマーが自ら「私はトランスジェンダーです」とカミングアウトすることは、本人が男女いずれかだと自認していたとしても、周囲が「私は元から男/女ではありませんでした、と宣言している」と受け取る可能性がある以上、やはり「典型的な男/女」とは異なるジェンダー表現をしている、ということもできる。
 そして、これらすべてを包括したものとして「第三の性」=サードジェンダーという語が使われることがある。ただしこの語は、男・女というイメージしやすい概念に対し「それ以外のすべて」をひとまとめにして同格に置く、というやや乱暴な印象を与えかねない面もある。
 一方、ポスト構造主義の用語が由来である「n個の性」=「すべての人間は異なった性を持つ」という概念は、それが「現実に存在する」二大ジェンダーの間に横たわる構造的問題をあいまいにする、という批判もなされるが、多様な性のあり方をジェンダーアイデンティティの面から捉える場合、もっと評価されてよい概念であるといえる。
 いずれにせよ、日本の当事者や関係者の間では、これらの概念は浸透しているとは言いがたい。個々のジェンダーアイデンティティが単純に二分し切れないことが事実としてある以上、採用すべきかどうかは別にして、トランスジェンダーにかかわる形で、これらの語の意義の再検討は必要であろう。
 
  ●同性愛とトランスジェンダー
 
 トランスジェンダーは「ジェンダーアイデンティティに違和・不安を覚え、セックスと異なるジェンダー表現をする人」という意味である。
 これに対し、同性愛とは、「恋愛の対象者の性別」=性志向(セクシュアルオリエンテーション)が「自分の性別と同じ」人を指している。男性どうしの同性愛者をゲイ、女性どうしの同性愛者をレズビアンと言う。また、「恋愛対象の性別にこだわらない」という両性愛者=バイセクシュアルや、「恋愛感情を覚えない」という無性愛者=アセクシュアルという概念もあるし、「そもそも性志向は人間にだけ向かうものではない」という指摘もある。
 この両者は、「セックスにこそ性別区分概念がある」という、現代でもある程度一般的な感覚からすれば、「生物学的なオス・メス分類から外れた行動をとる人」として一からげにされることもしばしばある。
 たとえば、「オカマ」という概念の現代的用法は、これらにさらにジェンダーロールも加え、「セックスがオスである」のに「恋愛対象が女性でない」「男らしい振る舞いをしない」ような人すべてを差別的にみなす意味で使われる。このことは歴史的な差別性(五〇年ほど前までは「オカマ」は「男娼」と同じ意味で、強い差別語だった)もあるが、それ以上に、当事者の多様なあり方を否定し去る、という意味において不当なものである。「オカマ」という語は、ジェンダーアイデンティティが「男そのもの」であるゲイにとっては「恋愛対象が男性であるというだけの理由で『男らしくない』とされること」であり、ジェンダーアイデンティティが「女性」としてあるトランスジェンダーにとっては「あなたは男である」とラベリングされることを意味するのである。
 先にも触れたが、そもそもこの両者には関係がない。とりわけ、ジェンダーアイデンティティが女性であるトランスジェンダーの中の相当数は、性志向は女性に向いている。トランスジェンダーでありつつ女性と婚姻し、その後「自分は女性だ」と告白して家族内に複雑な問題をもたらしてしまうケースは多数存在しているのである。
 なおこれらを、当事者の側からあえて「セクシュアルマイノリティ」として一くくりにすることがある。しかしこれは、そもそも異なる概念を単に「性的な少数者」だからという理由でまとめるもので、いささか乱暴な面もあることは否めない。アメリカでは、利害の対立が深刻な問題となることもある(第三章参照)。
 一方で、セクシュアルマイノリティに共通する問題として「国家が制度的性別や婚姻を一面的に管理している状況下で共通の不利益をもたらされている」という面を挙げることができる。欧米の社会運動の中では、これらセクシュアルマイノリティを、代表的な分類名のイニシャルをとって「GLBT」または「LGBT」と表記することもある(しかしここではインターセクシュアルが「排除」されている構造も見えるが)。
 
  ●インターセクシュアルとトランスジェンダー
 
 インターセクシュアル(intersexual・「半陰陽」、「両性具有」)は、セックスが男女いずれかの「典型的パターン」に属していない人を表す概念である。
 哺乳類は性染色体を持ち、これは卵と精子の受精により決定される。しかし受精後発生する胎児には性別差はない。ヒトの場合、受精後四~六週間の間に生殖腺の生成が起こるが、Y染色体を持つ胎児は、これに含まれるSRY遺伝子の働きにより多量の男性ホルモンが分泌され(ホルモンシャワー)、これにより生殖腺が男性器へと変化する。また、このシャワーの作用により、脳の形状にも分化が起こる。
 ところが実際には、この仕組みがうまく作用しない場合が少なからずある。まず、卵子や精子の性染色体が、減数分裂時のトラブルにより「異常」となった場合、誕生する子の性染色体がXX(メス)でもXY(オス)でもない、X、XXY、XXXYなどのタイプになることがある。この場合、Y染色体が十分に作用できず、ホルモンシャワーの作用が不足することがある。また、染色体がXYでも、SRY遺伝子が「異常」だったり、ホルモン合成がうまくいかなかったり少なかったりした場合、また原始生殖腺に男性ホルモンの受容能がない場合、ホルモンシャワーの作用は不足したりまったくなかったりする。これらにより、インターセクシュアルは生まれる。
 インターセクシュアルとトランスジェンダーの間にはいくつかの重要な関連がある。
 まず、トランスジェンダー発生の「有力説」とされる「ホルモンシャワー異常説」は、インターセクシュアルの発生原理の援用である。すなわち、ジェンダーアイデンティティの形成には脳の性差が重要な役割を占めており、ホルモンシャワーが生殖腺には十分行われ、脳に対しては十分に行われないことでMtFが発生するのだ、という説である。
 この説は、そもそもFtMの発生理由を説明できないことから、トランスジェンダー発生の「すべて」を説明する理由とはなり得ない。ただし、MtFがFtMよりも多く発生する根拠の一つにはなるかもしれないと考えられ、それなりに支持を得ている。
 さらに、制度的性別の問題がある。現在の日本の戸籍制度は「性別は性染色体で決まる」としている。しかしそれならば、インターセクシュアルの性別は男・女のいずれになるのか。「Y染色体を含んでいれば男性」としたとしても、その中のSRY遺伝子に「異常」がある場合はどうなるのか。もっと言えば、インターセクシュアルではないが、上記の発生原理により「染色体が完全なオス型=XYで、しかし外性器・内性器ともに完全なメス型となり妊娠・出産もできる女性」は現実に存在するが、この人の戸籍性別はどちらになるのか。これらについて、戸籍制度はまったく考慮していない。
 またインターセクシュアルではしばしば、外性器と内性器の「見かけ」が食い違い、また第二次成長時のホルモン分泌がさまざまな様態をとることで、出生時に「判定した」性別と異なる肉体の成長をすることがある。これらの場合、外性器のいずれかの性別の形状への再形成、ホルモン投与には健康保険が適用され、また戸籍に記載された性別を変更することも認められてきたが、その際、戸籍性別が「性染色体で決まる」こと、実社会が男性優位であることなどから、本人の意思を無視し、医師や親権者の判断で男性の側に「合わせ」られてしまうことが多い。
 インターセクシュアルも、トランスジェンダーと同じように、ジェンダーアイデンティティが確定・安定しないことが多い。そして両者と医療・制度的性別とのかかわりは対極をなしている。しかし「多様な性」を認めない社会においては、両者はどちらも本人の意思を踏みにじられた生き方・身体性を強制されることとなっている。

トランスジェンダリズム 目 次
まえがき  米沢泉美 10

第一章 トランスジェンダー概論  米沢泉美 13
 ●私はトランスジェンダー 14
 ●セックスとジェンダー 15
 ●社会的・個人的・制度的ジェンダー 17
 ●ジェンダーアイデンティティ(性自認) 18
 ●ジェンダーアイデンティティとトランスジェンダー 20
 ●トランスジェンダーのいまむかし 21
 ●トランスジェンダーの「生」 22
 ●困難とその克服の「処方箋」 24
 ●立ちはだかる障壁(1) ケアと医療 25
 ●立ちはだかる障壁(2) 社会制度 26
 ●立ちはだかる障壁(3) 他者との関係性 28
 ●「性同一性障害」¹トランスジェンダー 29
 ●トランスセクシュアルとトランスジェンダー 31
 ●クロスドレッサー(トランスヴェスタイト) 33
 ●ジェンダーブレンダー、サードジェンダー、「n個の性」 34
 ●同性愛とトランスジェンダー 36
 ●インターセクシュアルとトランスジェンダー 38

第二章 トランスジェンダーの直面する問題 41
◎社会問題  いつき 42
 ●日常生活 42
 ●押しつけられる「性別」 43
 ●選択を強いられる「性別」 44
 ●就労問題 45
 ●トランジション後の就労 46
 ●就労後のトランジション 47
 ●S社による「女装」者解雇事件の経緯 49
 ●不可解なこと 49
 ●おわりに 52
◎パブリックスペースと性別  筒井真樹子 53
 ●ジェンダー化される空間 53
 ●トランスジェンダーの視点から 55
 ●ジェンダーについてもバリアフリーを 57
◎制度的性別  米沢泉美 59
 ●選択の余地がない制度的性別 59
 ●行政サービスや民間サービスでの性別 60
 ●リスク回避のための「生活の知恵」 62
 ●「すべて」を閉ざす住基ネット・住基カード 63
 ●戸籍の訂正 64
◎医療問題  いつき 67
 ●はじめに 67
 ●ブルーボーイ事件 67
 ●ガイドラインの功罪 68
 ●ふたつの分断 69
 ●医療機関間の分断 71
 ●医療のコース化 72
 ●精神科・カウンセラーの不足 74
 ●保険の適用 75
 ●おわりに 76

◎メディアとトランスジェンダー  米沢泉美 77
 ●「俺は女じゃない!」 77
 ●「ニューハーフ」概念の登場と浸透 78
 ●「性同一性障害」=「かわいそう」イメージ 79
 ●「金八先生」、その功罪 81
 ●おわりに 83

★コラム セックスワークとトランスジェンダーの関係  畑野とまと 84
★コラム トランスジェンダー当事者と家族をとりまく問題  いつき 90
 
第三章 トランスジェンダーの歴史と思想 95
◎日本トランスジェンダー略史(その1) 古代から近代まで  三橋順子 96
 ●古代~中世社会における「神性」 96
 ●近世社会における展開 98
 ●近代社会における抑圧 100
◎日本トランスジェンダー略史(その2) 戦後の新展開  三橋順子 104
 ●1940年代後半~50年代 104
 ●1960年代~70年代 107
 ●1980年代 110
 ●1990年代前半 113
◎日本トランスジェンダー略史(その3) 1990年代後半~現在  三橋順子 119
 ●トランスジェンダリズムへの潮流 119
 ●性同一性障害をめぐる諸問題 123
 ●トランスジェンダーの社会進出と未来 128
◎ヴァージニア・プリンスとトランスジェンダー  筒井真樹子 130
 ●はじめに 130
 ●ヴァージニア・プリンス 131
 ●トランスジェンダーの成立 133
 ●おわりに 137
◎アメリカのトランスジェンダー・アイデンティティ  筒井真樹子 140
 ●はじめに 140
 ●医療 141
 ●ジェンダーの闘い 144
 ●サードジェンダー 146
 ●おわりに 日本との比較 150

★コラム TGブランチ発足から「約束事」へ  森田MILK 156
★コラム MIX! ABOUT! THROUGH THE NIGHT!
―玖伊屋紹介 阿倍まりあ 169

第四章 トランスジェンダーが生きやすい社会をめざして 173
◎トランスジェンダリズムとは  米沢泉美 174
 ●ジェンダーをめぐるトランスジェンダーの意識形成 174
 ●デフォルトセッティングからのフリー 176
 ●トランスジェンダーである自己の肯定 177
 ●医療や社会とのかかわり 179
 ●トランスジェンダリズム 181
◎性別に自己決定権を  米沢泉美 182
 ●個人の性別は誰が決めるものなのか 182
 ●個人の性別は自己決定権で捉えるべき 183
 ●当事者と非当事者、それぞれのアイデンティティ・クライシス 186
 ●双方が相手を尊重しあうという関係 187
◎制度的性別をめぐって  米沢泉美 189
 ●戸籍変更運動の現状 189
 ●戸籍制度はトランスジェンダーの制度的存在を認めない 190
 ●戸籍の廃止運動こそが必要 192
 ●性別欄廃止運動を 193
 ●住基ネット廃止運動を 195
◎医療をめぐって  いつき 197
 ●医療自由化の最大の壁「母体保護法第二八条」 197
 ●第二八条の削除と性別適合手術の美容外科化を! 198
 ●トランスジェンダーへの精神的サポートを 200
 ●すべての当事者に望む医療サービスを 200
◎おわりに 性別の多様性を  米沢泉美 202
 ●トランスジェンダーの特異性 202
 ●「被差別者の連帯」スローガンの虚構 204
 ●それでもなお、被差別者の連帯を 206
 ●非当事者との共生の論理 207
 ●性別に対する認識をゆるやかに 209

★コラム 戸籍性別の変更が認められる可能性はあるのか  佐藤文明 211
★インタビュー 医療はトランスジェンダーにどうかかわるか  中島豊璽 217

第五章 トークバトル「トランスジェンダリズム宣言」 225
●出席者 三橋順子/米沢泉美/いつき/司会・筒井真樹子

◆トランスジェンダー用語集 米沢泉美 265


私は現地取材を重視し、この間、与那国島から石垣島・宮古島・沖縄島・奄美大島・種子島ー南西諸島の島々を駆け巡っています。この現地取材にぜひご協力をお願いします!