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原岡桟橋を訪れて

千葉県房総にある「原岡桟橋」を訪れた。
友人(といってもかなり先輩)に美味しいものでも食べに行こう、と誘ってみた。新しい場所を訪れるのは心を興奮させる。それは写真家の性分?それとも綺麗な景色を残したいという真実性の確保なのかもしれない。
 友人はフィルムを経験している写真家。表現は「逆光のアーチを写真に残したい」そんな印象な彼。僕はどちらかというと陰影のグラデーションを好む。違うタイプの写真家は同じ素材をどんなふうに写真に変えていくか興味があった。
 それと同時に「自分の方向性は合っているのか?」その無意識であり決定的な問いを僕に投げかけてくることになる。


僕は物語を映し出せているのだろうか

 写真はぎりぎりまでフィルムかデジタルか悩んだ。それはきっと僕がずいぶんとデジタルから離れてしまったことを意味する。色や背景より「写真を撮る」という行為に加えて「銀塩に透かす」という作業を大切にしている写真家になってきているんだろう。表現は写真だけじゃなく、風や音、手触り「現地にいた証」を求めているんだと思う。
構成は単純な「人を映す」だったり「物語」に似た手触り。写真表現を通した僕の意思を写真に変えて伝えているのだ。


僕はカラー写真とモノクロ、どちらが得意なんだろう

カラーなのか?それともモノクロ?


モノクロに振れてしまう、やはり

 撮影は同時に僕の何かが削れていく。視界はぼやけていくのに記憶は鮮明になる。それは「写真の恐さ」でもある。
友人はきれいな写真を撮っていた。昔の僕が手に持っていた感覚だ。今はずいぶん表現が遠回りに変わってしまった。

 見ているものが同じなのに、表現が違う。捉えるものが違う。
不安定な意味でずいぶん遠くに来てしまったようだ。
それは、何かを手に取り、そして何かを手放してしまった。それは表現者として生きていくことを選んだ僕の宿命なのかもしれない。

 遠い昔からある場所。それが原岡桟橋。生きている人が変わり、カメラからスマーフォンに変えて、リアルタイムに写真を世界に発信する。僕はそのテクノロジーの進化を否定するわけではない。「進化を捨てる」その表現者が世界に一人くらい居てもいいかな。そう思う。
現像に少し時間をかけ、撮影した時間に思いを放つ。それは季節が変わってしまっても。
昔からある、この場所は何も変わらない。そして、僕も変わらないのだ。生きている限り。
命が尽きるまで写真で心を震わせていこう、何も見えていなくても。


きっと多くのカップルがここを訪れるのだろう
素敵な風景をありがとう

原岡桟橋
千葉県南房総市富浦町原岡204

電車:JR内房線「富浦駅」から徒歩で約11分
車:富津館山道路「富浦IC」出口を右折、そのまま直進し多田良の信号を右折、次の横断用信号を左折。


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