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「よくできたね。がんばったね。」


大人になると褒められる事って減る気がする。

自転車乗れるようになった、100点取れた、バク転できた、皆勤賞取れた。
そんな事でも周りは褒めてくれる事が多かった気がする。大人になった今、同じ事をやっても、きっと、誰も褒めてくれない。

大人になると
どんなに眠くても何となく身体がしんどくても毎日出勤するのは当たり前、理不尽な事に耐えるのは当たり前、人と上手にコミュニケーションを取るのは当たり前、たくさんの事が『当たり前』で片付けられてしまう。

きっと大人になっても褒められたかった。
〇〇さんはすごい、だから信用できる。
〇〇さんは仕事が早いね。
〇〇さんは本社勤務できたんだ、出世だね。
〇〇さんは綺麗だね。痩せているね。
〇〇さんが羨ましい。
そんな風にたくさん褒めてほしかった。

久々に実家に帰ってきたついでに、ふと昔の自分がどんなんだったか知りたくなって通知表を持って帰ってきた。

小学校一年生の頃の担任の先生。
メガネが似合う優しくて、怒ると怖いけど父親に雰囲気が似ていて、少し安心感があった先生。
優しい丸文字で、当時のわたしが頑張っていた事がたくさん綴られていた。

「あさがおの観察スケッチすばらしいです。とくに色を何度も何度も重ねぬりしていました。」
「体育の後転、作文など『よくできたね。がんばったね。』の一言をかけてあげるととてもいい笑顔になりました。」

小学生六年生の時の担任の先生。
本人自身も熱くて生徒思いであったかい先生。
達筆で、その人となりを表すかのように長い文章で当時のわたしを記してくれていた。

「純粋な驚きや感動を素直に持てるところがとてもよいです。」
「〇〇さんのいいところは、そのままにせず本当にそうなのかと実際に確かめてみるところです。」

読んでいたら涙が止まらなくなった。

こんなにも成長を見ててくれてた人が周りにいて、
当時からぶきっちょだったわたしも、できないなりに一生懸命頑張っていたんだろうなって。

所謂大人と呼ばれる年齢になって、褒められる事は確かに減ったけど、昔の自分はこんなにも一生懸命頑張っていたし、今でも充分頑張っていると思う。たとえ、人様に賞賛されるような功績を残していなくとも。

「頑張れ」って言葉は、言い投げしてるというか、何となく冷たい感じがして今でも好きじゃない。だから言われる事はあっても、人に言わないように心掛けている。それに、頑張れなんて言われなくたって、他人から褒められなくたって、もう既に充分頑張ってる。

でも、「頑張ったね」って言葉は好きだ。
なぜなら認めてくれているような、今のわたしを全肯定してくれているような気がするから。

小学校一年生の頃の通知表に書いてあったように、小さい頃のわたしが言われてとてもいい笑顔になったように、いくつになっても嬉しくてあったかい気持ちになる言葉だと思う。撫でられたり、抱き締めてもらっているような気持ちに今でもなる。

今日外出する予定はないのに、早起きできたのすごくよいです。前から綺麗にしたかった棚の掃除ができたのえらいね。
でも、全部の棚を一気にやると疲れちゃうから、今日は2段だけを掃除したのも自分の事分かっててそうしたんだよね、すごいじゃん、成長じゃん。
今日はダラダラしっぱなしじゃなくて、まずシャワー浴びれたじゃん。

ほら、こんなにいっぱいある。
どんな人だって、『当たり前』に押し潰されて見えなくなってるだけで本当は褒めるところいっぱいいっぱいある。

褒められたい事自体は決して悪い事ではないけど、
もう少し自分で褒めてあげてもいいんじゃないかなとも思った。通知表に温かい言葉でその時のわたしを記してくれた先生達のおかげだ。

さて、あたたかいコーヒー飲んでゆっくり過ごして、すこーしだけ掃除でもしようかなぁ。

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