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009旧交をあたためる①

 
こんばんは。
今朝は寒く、なかなか布団から出られませんでした。
 
週末は、高校の友人と半年ぶりに電話しました。久しぶりでしたが、近況やそこから派生した取り留めのない話を沢山しました。卒業から何年も経ちますが、気が置けない悪友との会話は楽しいものです。
 
さて、今日はそんな友人との話の中から一つ。
 
突然ですが、私の友人A氏は、10月頃に無理が祟り倒れて救急車で運ばれたそうです。夏に会ったときは元気そうだったので、電話口で、その話を聞いた時は全く信じられませんでした。悪い冗談かと思いましたが、どうやら冗談ではないようでして言葉を失いました。一時は、心拍数があり得ないような値となったそうで、救急隊員からも色々と言葉をかけられるレベルだったそうです。
 
この話を聞き、言葉を失っていた私は、突然かつて読んだ本のある一節を思い出しました。それは、親鸞聖人が9歳で出家された際の歌です。
 
親鸞聖人は9歳で家を出て、出家されるのですが、得度を受けるお寺で、「夜も遅いから明日の儀式にしよう」と言葉をかけられたそうです。それに対して、9歳の親鸞聖人は、「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」と歌を読みます。
 
一見すると、桜の儚さを読んだように感じますが、その奥、桜の儚さに、我々、人の儚さを重ね合わせておられます。
 
桜は、ご存知のとおり1週間ほどで散ってしまいます。ましてや、雨や風が吹けば、たとえ満開であっても夜の内に全て散ってしまうことがあります。人も、友人A氏のように突然倒れ生死を彷徨こともありますし、私の母のように訳も分からぬままに亡くなることもあります。もちろん、交通事故や災害で亡くなる人もいます。
 
この世界は無常で理不尽です。いくら努力して頑張っても、一瞬にして全て奪われることがあります。
 
次回へ続く>
 
 
合掌。南無阿弥陀仏。

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