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#949 あとどれぐらい時間があるんだろう、っていう話です。

新約聖書を読んでいると、そのパッセージによっては、なんとなく緊張感がみなぎっているように感じる箇所があるよね。

それって、なんだろう、って時々考えるんだけど。。。

今日の聖書の言葉なんかも、それかもしれないなー、って思う。

今日の聖書の言葉。

ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
ガラテヤの信徒への手紙 6:10 新共同訳

どこに緊張感を感じるかというと、ここ。

「今、時のある間に」

ね? なんだか、もうちょっとで時間切れになるからハヤクハヤクって急かしてるみたいな感じじゃない?

新約聖書を書いたひとたちは、どうしてこんな時間の感覚を持っていたんだろうなあ、って思う。

それはたぶん、すぐにでもセカイノオワリが来る、って考えていたからなのかもしれないねー。

クリスチャンにとってのセカイノオワリっていうのは、なにもべつに世界が破滅してジ・エンドになる、っていうことではなく。。。

むしろ、イエスが戻って来て「あんたたち、ちゃんとやってた?」って問われるような、そういう瞬間が来ることを意味しているんだけど。。。

問題は、そのイエスが帰って来るタイミングだよね。

そうだねー。あと2000年ぐらいしたら戻って来るよ、って言われて待つのと。。。

うん、すぐ戻るから、すぐね。だから用意しててね、って言われて待つのと。。。

何時になるかわからないんだけど、急に帰れるかも、って言われて待つのと。。。

同じ「待つ」でも、そりゃあ待ち方がぜんぜん変わって来るよねー。

たぶん、新約聖書を書いた当人たちは、イエスがすぐに戻って来る、っていう感覚でモノを言ったり書いたりしていたんじゃないのかなー、って思う。

ビジネス用語でミート・ジーザス・モーメントっていうタームがあるんだけど。。。

それって、自分の言ってきたこと・やってきたことのぜんぶが一瞬で試されて、その真価が隠しようもなく露わにされるモメントが来る。で、ついにそれが来ちゃった、ジーザス、っていう体験を指しているんだ。

イエスが世を去る時に残した言葉は「互いに愛し合いなさい」っていうことだった *。

で、そのイエスが1時間後に戻って来るかもしれない、だから、いまこのときに、ちゃんと愛し合っておこう、って思うのか。。。。

あるいは。。。

どうせイエスがいつ戻って来るかなんてわからないんだから、適当に流しておこう。愛し合うのは大切だと思うけど、無理なときは無理だし、まあ、そのうちちゃんとやっておくから、って思うのか。。。

「また来るから」とイエスが言って地上を去って、2000年が経過して。。。

その2000年後を生きている自分としては、どうしてもねー、後者の時間の感覚になってしまう。わからないんだから、適当にやっとこう。適当、適当、っていう感覚。。。

だから、今日の聖書の言葉を読むと、うーん、自分、やっぱりそれじゃあいけないんだなあ、って反省させられる。

だって、基本、これなわけだからね。

「今、時のある間に」

「速報です。これから1時間後にイエスが戻ることがバチカンから発表されました」っていうニュースが流れる光景を想像してみる。。。

そしたら、自分、最後の1時間を何に使おうとするだろう?

おもむろにキッチンに行って、最後の晩餐の調理を始めるのか。。。

それとも、だれかのところに行って、イエスが言った「互いに愛し合いなさい」っていうタスクを実行しようとしてみるのか。。。

でもさ、だれかのところに行くのに30分かかって、たまたま不在だったりした日にゃあ、がっかりして家に戻って、それでまた30分かかって、残念ながらタイムアウトだよね。。。

で、ミート・ジーザス・モーメントになっちゃう、っていう。。。

そしたら、イエスになんて言葉を返せばいいんだろう。。。

すみません。あともう1時間ください、とか言っちゃうんだろうか。。。

そんなこんなを考えながら、思いを改める。

いまこの瞬間、できるうちにできることをやろう、って。

なにもそれは大それたプロジェクトを立ち上げるとかなんとか、そういうことでは全然なくって。。。

ただ、だれかを愛して、だれかをゆるして、だれかに親切にする、ってことなんだけどね。

註)
*  Cf. ヨハネ 15:12

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