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イコンを通して何が見えるか?

聖書を読んでると、ん? 矛盾してるんじゃね? と思う所が、ままある。

たとえば

ひとが救われるのは行いではなく信仰による、とパウロは言い。。。

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
ローマの信徒への手紙 3:28 新共同訳

いっぽう

ひとが救われるのは信仰だけでなく行いによる、とヤコブは言い。。。

人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
ヤコブの手紙 2:24 新共同訳

どっちやねん。。。

んなもんだから、信仰義認(人は信仰によって救われる)を唱道したマルチン・ルターは、ヤコブの手紙を「藁の書」とディスりまくり、できれば聖書正典(聖書を構成する文書の教会公認のリスト)から削除したかったらしい。。。

できなかったけど。

今日の聖書の言葉。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
ヤコブの手紙 1:22-24 新共同訳

「無矛盾な閉じた系の内部では自分自身の正しさを証明できない」というゲーデルの不完全性の定理を引き合いに出し
 ⇓
聖書って矛盾があるじゃん!
 ⇓
聖書って構成文書が増減しない閉じた系じゃん! 
 ⇓
もしかして聖書の正しさ、証明できるんじゃね?
 ⇓
っていう、オメデタイ文系脳まるだしの回答に飛びつくのは、やめる(笑)

自分が思うに、ヤコブは「他者の視線」を問題にしてるんじゃないだろうか。。。

たとえば

Aというクリスチャンがいて、イエスを心のなかでひそかに信じていて、そして、じーっと岩の上に座っている。。。

Bという無神論者がいて、だから何も信じたり奉じたりするわけでもなく、ただ、じーっと岩の上に座っている。。。

Cという他者がいて、歩いて行ったら、右の岩にA、左の岩にBが座っていて、Cの目からはAとBは外見上の区別がつかない。

つまり「信仰」が個人と神との間だけで完結してたら、第三者の目からは、この世界に「信仰」が存在しているかどうか、認識のしようがないね、って話。

ここでヤコブは、なぜか「鏡」のたとえを持ち出す。

御言葉を聞くだけで行わない者がいれば
その人は生まれつきの顔を
鏡に映して眺める人に似ています

鏡に映った自分の姿を眺めても
立ち去ると、それがどのようであったか
すぐに忘れてしまいます

考えて見ると、われわれって本来は自分で自分の顔を見れないじゃん?

だって、自分の視線は常に自分から外にしか向かって行かないわけだから。

で、生まれてはじめて「鏡」を見たときに、びっくりするわけだ。

鏡というのは、自分本来の視線とは異なるもの。つまり、他者の視線から自分がどう見えるかを代弁してくれるミステリアスな装置が、鏡なのだ。

まあ、いまは鏡のほかに、チェキ、デジカメ、スマホ、プリクラと、他者の視線で自分を見させてくれる装置が、いくらでもあるわけだけど。

信仰が「自分と神」という次元から、「自分と神と他者」という次元に上がった(あるいは下がった)瞬間、このヤコブが重んじる「行い」の問題が浮上するんじゃないかと思う。

なぜなら、自分と他者とが関わり合いを持つことが出来るのは、いつも・たえず・つねに・なんらかの「行い」によるしかないんだもん。

 ほほえみかける
 手をふる
 道をゆずる
 あいさつする
 言葉をかける
 目をみて話す
 手を差し伸べる
 握手する
 会釈する
 手伝う
 相談に乗る
 気持ちを受け止める
 求めに応える
 一緒に食事をする
 もてなす
 癒しの手をのべる
 笑い合う
 泣き合う
 いっしょに歩く

自分と他者をつなぐ「行い」のリストは、いくらでも書き足せる。

言葉かけをする、という行為は、電話する~手紙を書く~メールする~TwitterでDMする~LINEに返信する~Instagramにコメントする、と、いろんな「行い」に拡大できるよね。

ヤコブが言いたかったのは、自分の「信仰」は「行い」を通してしか他者に認識されない、ということだったとして。。。

いや、べつに、ぜんぜん認識されなくったって、いいじゃん、というのも、極論としては、ありなんだ。

だって、つきつめたら、すべては「自分と神」との問題に収束するわけだから。自分と神が信仰で結ばれてさえいれば、それでいいじゃん。ほかに何が要るのよ? と、言えなくもないんだ。

でも、それだったら、この世界は他者にとって、まるで「信仰」が存在しない世界になってしまう。

ギリシャ正教では、教会の中にイコンをかかげる。

イコンに描かれたイエスやマリアや聖人たちの姿を通して、ひとびとは信仰の世界を「見る」のだ。

そうして、これは、恐ろしいことではあるんだけど。。。他者はこの世界で、クリスチャンという「イコン」を通して、信仰の世界を「見る」んだよね。。。

いやはや。。。オレはいったい他者にどんな世界を見せているのか(汗)

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