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見限られ、見放され、見捨てられ。。。それでも、徹底的に愛は。。。

ひととのかかわりの中で、信頼を失うことを繰り返していると、見限られてしまうことがある。

見限られる。。。
「この人は、こういう人なんだな。もう頼りにするのは、やめておこう」
という扱い。

そこから、さらに、相手を呆れさせることを繰り返すと、見放されることに。。。

見放される。。。
「この人は、何を言ってもダメだな。注意しても無駄だから、やめよう」
という扱い。

それでも、さらに、失態を繰り返していると、ついに、見捨てられてしまう。

見捨てられる。。。
「この人がどうなっても、知らない。自分は関係ない。絶対に助けない」
という扱い。

今日の聖書の言葉。

強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない
申命記 31:6 新共同訳

旧約聖書を読んでると、イスラエルの民は、何度も何度も神を裏切り、その結果として当然ながら、見限られ ➡ 見放され ➡ 見捨てられ、というコースをたどることになる。

。。。なるんだけど、不思議なことに、神さまは、何度も何度も思い直して、「やっぱり見捨てない」と宣言するんだよね。。。

そんなこと続けているなら、見捨てるぞ、と言いながら、しばらくすると、やっぱり見捨てられない、と思い直してしまう、神の「揺れ動く思い」。

昨年末から読んでる聖書の箇所が、ちょうど旧約聖書のエレミヤ書なんだけど、神の「揺れ動く思い」を、痛切に感じてしまう。

見捨てる。。。見捨てない。。。見捨てる。。。見捨てない。。。見捨てる。。。やっぱり、見捨てない。。。みたいな。

たいへんなのは、そういう「揺れ動く思い」を伝えるメッセンジャーとして選ばれた預言者エレミヤだ。彼は、肉体的にも感情的にも、ふたつに引き裂かれる苦しみを経験したんじゃないかと想像する。

だからエレミヤは、こう言わずにいられなかったんだろう。

わたしのはらわたよ、はらわたよ。 わたしはもだえる。
エレミヤ 4:19 新共同訳

もだえる、はらわた。。。

新約聖書を見ると、イエスは、弱り果てている群衆を見て、はらわたがちぎれる思いをした(スプラングニゾマイ)と書かれている *。

人間の酷い行状を目の当たりにして、怒り心頭に達しながら、それでも、見捨てることができなくて、深い愛から、救いの手を差し伸べてしまう。。。

その怒りと、深い愛が、真っ向からぶつかってバーストした地点が、イエスの十字架なんじゃないか、と自分は思う。

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
エフェソの信徒への手紙 1:17 新共同訳

イエスの十字架と復活によって豊かに与えられる罪の赦し。ここから、あたらしい世界がはじまるんだ。

主は、あなたと共に歩まれる。
あなたを見放すことも、
見捨てられることもない。

いま、あたらしい世界で、あたらしいスタート地点に立たされている。。。その感覚をもって、あたらしい一年を生き始められたらいいな。

註)
*  マタイ 9:36「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」はビザンチン写本では「Ἰδὼν δὲ τοὺς ὄχλους ἐσπλαγχνίσθη περὶ αὐτῶν, ὅτι ἦσαν ἐκλελυμένοι καὶ ἐρριμμένοι ὡς πρόβατα μὴ ἔχοντα ποιμένα」となっていて、エスプラングニステー(原格はスプラングニゾマイ)が「はらわたがひきちぎれるような思い」という意味の言葉だ。

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