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千年王国の資本論は、どんな章立てになる? っていう話です。

働かざるもの食うべからず、って、父が生前よく言ってた。

父は無神論者で、パルタイのシンパだった。

実家はパルタイの機関紙の日曜版を購読してたから、自分も子どもの頃からそれを読んで育った。

その影響なんだろうね。自分は基本オカルト少年だったにもかかわらず、社会科学系の本とかも読んでいた。

大月書店、国書刊行会、めるくまーる社、工作舎、スターログが並んでた、っていうのが、十代の頃の自分の本棚だったんだけど。。。

でも、さすがに『資本論』を読破するほどじゃあなかった。。。

って言うのは、自分は数学が超苦手だったもんだから。マルクスの労働価値説とか余剰価値説って、結局、数学だもんねー。。。

それよりか、クリスチャンになって、聖書を読むようになって、なーんだ、働かざるもの食うべからず、って、聖書がオリジナルなんじゃん、って見つけた高校2年の冬。。。

今日の聖書の言葉。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙 2:8 新共同訳

働け! 働くことこそ力だ!それが世界の明日を築く、っていうのは、人類社会の普遍的なスローガンかもしれない。

このスローガンが、どこに貼ってあっても、ぜんぜん違和感ないよね。たとえそれが 1944年のクラクフの工場の門に掲げてあっても、そして、それが 1945年のクラクフの工場の門に掲げてあっても。。。

しかし新約聖書は、垂直から降下してくる神のコトバによって、このスローガンを刺し貫いて揺さぶりをかけているかのように、自分には思える。

だって、こう宣言しているんだもん。

事実、あなたがたは
恵みにより、信仰によって救われました
このことは、自らの力によるのではなく
神の賜物です

だれだって自分の居場所を得て、働いて、花を開かせたいと思って、生きている。

けれど、疲れ果て、傷つき、病んで、倒れて、からだもこころも動かせなくなってしまうこともある。

もし他人や自分がそういうふうに動けなくなってしまったら。。。

その時は、人生どう受け止めたらいいか、思い悩むわけだけど。。。

でも、新約聖書の世界観によるならば、すべてのひとは神の「恵み」によって生かされている、っていうことになるんだよね。

その恵みは、太陽の光のようだ。

太陽の光を人間は一方的に受けることしかできない。

だって、人間は自分の力で太陽を作り出すことなど出来ないんだから。

恵みもそうだ。

恵みは、宇宙の創造者である「神」だけが作り出すことができるもので、人間はそれを受け取るだけだ。

恵みのなかで、いちばん大きなものは「いのち」だと思う。

すべてのひとは「いのち」という恵みを受けて、生きる。立ち上がる。歩く。立ち止まる。かがみこむ。座る。倒れ伏す。横たわる。。。

働くことも、働かないことも、働けなくなることも、ふたたび働くことができるようになることも、すべては「いのち」のあらわれだ。

キリストが再臨した千年王国では、工場の門にかかげられるスローガンは、こういうのにかけかえられるんじゃないかと思う。

もし主がお許しくださるなら、私はあのことと、このことをしよう。
ヤコブの手紙 4:15 リビングバイブル

もし、千年王国の資本論というのがあるとしたら、その章立ては、きっとこうふうになるかもしれない、って想像している。

第1章 創造者なる「神」によってあたえられた恵みについて
第2章 恵みのあらわれとしての「いのち」について
第3章 恵みのあらわれとしての「自然資本」について
第4章 恵みのあらわれとしての「人的資本」について
第5章 恵みのあらわれとしての「物的資本」について
第6章 自然資本は人工資本による代替が不可能であることについて

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