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この世界は「回心」が可能な世界だ、っていう話です。

自分は、中学生のとき「救われたい」と熱望していて、そのタイミングでイエスに出会って「救われた」という体験をして、それからというもの「救われている」という感覚を抱きながら生きて来ているわけなんだけど、ときどき、ほんとうに自分は救われているのかなあ、って思う日もある。

っていうのは。。。

「救われている」のが、なぜわかるかというと、「わかるから、わかる」としか言いようのない主観的な体験であるわけで、だから常に「わかる」のであればいいけれど、天気によってというか、湿度によってというか、その日の体調によって「わかる」感が薄れることがあるんだよねー。猫の目かよ(笑)

まあ、人間の「わかる」なんて、あてにならないから、そんなもんに頼らずに、むしろ、聖書に「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ 10:13)って書いてあるんだから、その客観的な根拠にこそ自分は頼る、ってココロに決めればいいんだけど。。。

じゃあ、その客観的な根拠であるところの聖書を調べてみると、じつは「救われる」ということについて、相矛盾するように見える二つの立場が記されているんだよね。どういうふうに矛盾しているかと言うと。。。

ひとつは、永遠の昔から神はだれが救われるかをあらかじめ決定していた、という考え方。これは「決定論」と言われる。この考え方だと、人間には意志の自由が無いことになっちゃう。人間は、ただ、神が決めた通りに行動しているだけなんだ。証拠聖句は「天地創造の前に…お選びになりました」(エフェソ 1:4)とか。

もうひとつは、永遠の昔から神はだれが信じるかをあらかじめ知っていた、という考え方。これは「予知論」と言われる。この考え方だと、信じるか・信じないかは人間の自由な意志の選択によるわけだから、人間の主体性は排除されないことになる。証拠聖句は「自分の確信を捨ててはいけません」(ヘブライ 10:35)など。

予定論と予知論。どっちが正しいかというと、どちらも聖書にそう受け取れるように書いてあることであって、しかも、神の領域、というか、メタの領域の事柄であるわけだから、いろいろ神学者たちが議論しているにもかかわらず、結局、どっちが正しいかは人間にはわからないんだよね。

今日の聖書の言葉。

ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二 3:17 新共同訳

不思議なことに、予定論か予知論か、っていう議論は、神学の世界を超え出て、他の学問分野に及んでいるようにも見える。神学以外だと、対立項の立て方としては「決定論vs非決定論」というカタチを取るんだけれど。。。

これが宇宙論の世界に入ると、決定論的宇宙論vs非決定論的宇宙論、となって展開される。宇宙の動きは、つきつめると素粒子のフルマイになるわけだけど、そのフルマイはコンピューターで演算可能だと考えるなら「決定論的宇宙論」になる。宇宙シミュレーション仮説とかはその延長線上だね。

これが人間論の世界に入ると、決定論的人間論vs非決定論的人間論になる。人間は、生まれ持った遺伝や育った環境によって、キャラクターやフルマイが決まってしまうのか。それとも、遺伝や環境の影響下にあっても、それを打ち破る意志の自由を持つのか。

もし法学者が決定論を採用した場合、刑罰は限りなく教育刑に傾く。だって、罪を犯してしまったのは遺伝や環境が原因で、すべて本人の責任とまでは言えないから。逆に、非決定論を採用した場合には、刑罰は限りなく死刑に傾く。だって、遺伝や環境にあらがうことのできる意志の自由を持っているにもかかわらず、あえて罪を犯すことを選んだ責任があるから。

ロボット工学者が決定論を採用した場合、完璧なアルゴリズムで動くAI(人工知能)を作ることができたら、それは人間と同じだ、ということになる。だって、人間だって決まった通りに動くだけなんだから。逆に、非決定論を採用した場合には、見かけ上カンペキに人間としてフルマウAIであっても、やっぱり人間とは違う、ってことになる。だって、意志の自由はプログラムできないんだから。

神学に淵源を持つ決定論vs非決定論の二項対立は、宇宙論から人間論、法学や刑法、AIやロボットなど、あらゆる分野に波及していて、それぞれの分野で議論が続いているんだけど、やっぱり神学と同じで、どちらが正しいかは決着を見ていない。ていうか、決着は見えっこないよね。だって、結局それは、あなたは世界をどのように見るか、という世界観的前提の議論になってしまうんだから。

ここでいう主とは、“霊”のことですが
主の霊のおられるところに自由があります

決定論と非決定論のハザマで右往左往しているところへ、聖書はいきなり「聖霊」をぶっこんで来る。これは聖書にしかできないぶっこみ方だねー。

このポイントに着目すれば、聖書では二項対立ではなく三項図式になっている、って観たほうがいいのかもしれない。つまり、決定論+聖霊+非決定論=世界、っていうことだよね。

このことを、どう考えたらいいのか。いまのところ自分は、こう思っているんだけれど。。。

神は、すべての人が救われることを願って、すべての人に聖霊を注いでいる。なので、すべての人は聖霊のはたらきを受けて、遺伝や環境の支配から解き放たれ、自由な意志を行使できる。。。そう自分は信じている。

まあ、結局、信じるか・信じないか、のハナシにはなっちゃうんだけどさ。。。

でも、もし、聖霊によって人間は自由な意志を行使できるのだとしたら、次のような聖書のコトバも意味が通じるようになるんじゃないだろうか?

神はその怒りを示し
その力を知らせようとしておられたが
怒りの器として滅びることになっていた者たちを
寛大な心で耐え忍ばれた
 *

この世界では、だから、人生は何度でもやりなおせるし、マイナスは打ち破れるし、セカンドチャンスどころか、サードも、フォースも、フィフスも、シックススも、セブンスも、エイスも、もっと、もっと、あるんだと思う。この世界は「回心」が可能な世界なんだ。

註)
*  Cf. ローマ 9:22

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