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#944 感謝と賛美の歌をうたう、って、そう単純ではないよね、っていう話です。

いつも喜んでいなさい・たえず祈りなさい・すべてのことに感謝しなさい。*

。。。っていうモードで毎日生きられればいいなあ、と思うし、また、それができるように自分は努めてもいるんだけど。。。

だけど、感謝・感謝、賛美・賛美、だけではいられないようなモメントも、人生にはあるよねー。

今日の聖書の言葉。

感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
詩編 100:4 新共同訳

感謝の歌を神にうたう、って、具体的にはどんな歌をうたえばいいのか、って思うんだけど。。。

でも、よくよく考えてみたら、聖書のなかにはすでに、神に向かってうたう歌が、がっつり入っているんだよね。

それが「詩編」だ。

詩編は、むかしエルサレムにあった神殿で聖歌隊が朝に夕にうたっていた歌をまとめた讃美歌集だ。

感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ

賛美の歌をうたって主の庭に入れ、とは、言い換えれば、詩編をうたうことによって、あなたは主の臨在のなかに入ることができるよー、という招きでもあるわけなんだけど。。。

その詩編の150種類あるボリュームをよーくながめてみると。。。

そのなかには、えー、これが賛美の歌なの? って思うような、けっこうエグイ内容のものがあることに気づかされる。

それがいわゆる、嘆きの詩編、とか、呪いの詩編、と呼ばれるものだ。

じゃあ、どれが嘆きの詩編で、どれが呪いの詩編か、っていうことについては今回は略。

でも、ちょっと嘆きをピックアップしてみると、こんな歌がある。

わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
詩編 22:2 新共同訳

さらに、呪いの詩編をピックアップしてみると、こんなのも。

呪いを衣として身にまとうがよい。 呪いが水のように彼のはらわたに 油のように彼の骨に染み通るように。
詩編  109:18 新共同訳

呪いがオマエの五臓六腑に染みわたれ! って、なんとオソロシイ。。。

ここには、感謝とか賛美のカテゴリーにはおさまりきらない人間のナマの感情が爆発している感じだ。

で、しかもそれが神への賛美として「詩編」に収められている、っていう。。。

これって、いいんでしょうか、主よ。もうちょっとモデレートしたほうがいいんじゃないでしょうか。あまりにも失礼ではないですか。。。って、つい思ってしまうんだけど。。。

でもねー。。。そういう歌が聖書に収められている、っていうことは、神はそういう歌を受け止めてくれるし、いやむしろ、そういうふうにナマの感情を神にぶつけてくればいいんだよ、って神が言っている、ってことになるんじゃないかと思う。

だとしたら。。。

賛美の歌をうたって主の臨在に入る、っていう方法は、べつになにも感謝・感謝、賛美・賛美っていう心がアップした歌じゃなきゃダメ、ってことにはならないよね。

ボロボロに傷ついて、呪詛の言葉を吐きながら、どうしてですか神さま、あなたはいないのですか? って嘆きながらうたう歌であっても、それでもOKってことになる。

だって、そういう歌が神公認の本に載ってる、っていうか、神が書いた本に載っているわけだから。

そういうふうに考えると、なんで詩編に150もの歌がおさめられているのか、なんとなくわかるような気がする。

たぶん、毎日変化する自分の気持ちに寄り添うように、ぴったりの歌が用意されている、ってことなんじゃないだろうか。

そりゃあ人生だもの。山の頂上に立つように思う日もあれば、足をすべらせて奈落の底に落ちるように感じる日もあるよね。

でも、どんな日にも、その日の気持ちにぴったりの歌が、ちゃーんと用意されている。

その歌をとおして、自分のナマの感情を神に打ち明ければいいんだ。

そしたら、もう次の瞬間、神の臨在のなかにいる自分に気づかされる。

さて、今日は、自分は感謝の詩編を歌おうか。。。嘆きの詩編を歌おうか。。。それとも、呪いの詩編を歌おうか。。。

それは、秘密(笑)

註)
*  Cf. テサロニケ一 5:16-18

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