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サイエンス・フィクションを模倣した、セオロジカル・フィクションの4回目、っていう話です。

これまで3回、サイエンス・フィクションならぬセオロジカル・フィクション(神学的創作)を書いたんだけど。。。

1回目が、これ。

で、2回目。

そして3回目。

でもって、今日の聖書の言葉のキーワードが「もはや死はなく」だったので、4回目を書いてみる。

今日の聖書の言葉。

彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。
ヨハネの黙示録 21:4 新共同訳

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「新しいエルサレム」の第 451階層に住み始めてからの様子を過去に3回ほど紹介した。その続きを書かなきゃ、と思いながらも、ほかにやることが多すぎて、ついつい時間がたってしまった。旧世界の暦法なら 28,000年ぐらい経過しているだろうか。。。

なぜヒマがないかということについては前に、えんえんとおしゃべりが続いているため、というふうに説明した。ここ、新しいエルサレムは、一辺が 2,200キロメートルの巨大な立方体で、高さ 1キロの空間を持つ階層が1,000以上ある。そこに 1,000億人以上の「神の子どもたち」が住んでいて、全員とじっくり話し込むと、あっという間に数百億年たってしまうことになる。本日現在、自分は 28,000年目のおしゃべりを続けているわけだけど、それでもまだ会えていない住人がいる。今日はこのあとパーリーゲート・カフェ(真珠門茶館)でオランダの神学者ヘンドリクス・ベルコフと会ってコーヒーを飲むことになっている。会いたい会いたいと思いながらもお互いの予定が合わず、ようやく 28,000年目にして念願がかなった。

ヒマがない理由はそれだけではない。新しいエルサレムは基本、地球の軌道上に静止していて、ときどき移動して地表に着陸する。着陸日については3日ぐらい前にイベント告知サイト「ニュー・エルサレム・ポータル」にお知らせが投稿されて、いったん着陸したら 1,000日ぐらいはそのまま動かない。なぜ 1,000日も? という理由については自分の想像だけど、着陸期間が1日しかないと1,000億人がいっせいに観光に繰り出すので、地表が大混雑するからだと思う。着陸期間中は外に出る順番が割り振られるわけではなく、各自が好きなときに出て好きな場所を訪れる。回数の制限もない。ところが不思議なことに、1日当たりの上限がきっかり1億人で収まるように調整されているんだ。いったいどうやって調整しているのか、最初は不思議に思った。あ・うんの呼吸? 無意識の示し合わせ? 神の聖定? きっと聖句にもあるように「すべてのこと相働きて益となる」っていうメカニズムで調整されているんだろうとは思うけど、28,000年たってもいまだに謎だ *¹。

びっくりしたのは、新しいエルサレムの着陸場所は地球に限らないということだった。驚いたのは最初だけで、いまはもう慣れたけど。ある日、ニュー・エルサレム・ポータルに「あさってはアルファケンタウリBに着陸します」っていうお知らせが投稿されて、「まじかよ、SFじゃん」って思って、興奮して第 1,000階層の上辺にある展望タワーに走った。走ったと言っても物理的に走ったわけではなく。。。それで行けないこともないけど、徒歩だったら休みなく階段を上って1か月かかってしまうので。。。頭のなかで「展望タワー」って念じると、すぐそこに移動した。考えてみればそれこそSFじゃん!な要素だけど、復活によって与えられた新しい体は、物理的な身体性でありながらも一瞬で空間を跳躍できてしまえる。新約聖書には、復活したイエスが所かまわず現れては消えた、という現象が記録されていて、いま思えば新しい身体性の機能のカタログはすでにそこに書いてあったんだなー、って気づく *²。もっとちゃんと読んでおけばよかった。。。

なんで最上階の「展望タワー」に走ったかというと、そこに立てば、新しいエルサレムがハイパードライブで亜空間に突入してアルファケンタウリBに向かう光景を見れる、と期待したから。イメージ的には、ミレニアムファルコン号がギュインギュインとエンジンを軋ませながら束になった星々を突き抜けて光のトンネルを進むシーンを想像したんだ。でもね、実際はどうだったかと言うと。。。予告された移動の時間が近づいたので、窓の外の青い地球の半円を固唾を飲んで見つめていたら、ぶるん、と一瞬床が揺れたように感じて、もうアルファケンタウリBに着いていた。復活した自分の体はどこにでも一瞬で移動できるんだから、新しいエルサレムだって同じだろう、ってどうして気づかなかったんだろう。

1,000日間のアルファケンタウリBでの滞在で経験したことは、また別の機会に書きたいと思うけれど、しかし、やっぱり書くためのヒマはないだろうなあ、とも思う。というのは、地球以外の着陸はそれが最初の一つ目に過ぎず、続く訪問予定が目白押しになっているからだ。単純に計算してみてもわかると思うんだけど、ひとつの惑星に着陸する期間が 1,000日つまり 2.7年だとして、銀河系だけでハビタブルゾーンの惑星を持つ恒星が 2,000億個あるわけだから、すべて回るのに 740億年ぐらいかかることになる。しかも、宇宙には似たような銀河が 2兆個あるので、合計すると 740億✕2兆年というスケジュールになってしまうのだ。地上で生きていたときは、天国で永遠を過ごすことが無限のヒマのように思えて恐ろしく感じたけれど、実際の新しいエルサレムは、永遠に続く未知への期待と興奮っていうのが正確な表現だと思う。

それにしてもね。。。740億✕2兆年のスケジュールが一巡したら、またふり出しに戻るんですか、って係の天使に聞いたら、こう答えたのには驚いた。

「この宇宙を回り終えるとスケジュール1の完了で、スケジュール2では別の宇宙を回ります。多世界理論ってご存じですか? 実はこの宇宙のほかにも似たような宇宙があと 450兆個、それから、ぜんぜん似ていない宇宙が 370兆個ぐらいあるんです。それらを残らず順番に進行して行くので、スケジュールはまだまだ続くんですよ。そうそう、ここに予定表があるんですけど、見ます?」って言うので、「いや、いいです」って言ってから、思わずつぶやいた。SFって言うより、仏教だな、って。。。

ところで、あの移動の瞬間の「ぶるん」っていう感覚が、何かに似ているなあ、と思って、なんだろう、ってしばらく考えていたんだけど、気がついた。あー、自分が死んだときの感覚に似ている、って。。。

地上の人生の最後のフェーズで、いよいよ死が避けられないということを病院のベッドの上で自覚して、じゃあ、これから自分はどういうルートで「神」の顔を仰ぎ見ることになるんだろうか、ってことをいろいろ想像していたんだけど。。。

もし自分がカトリックなら、単純なルートではないよなあ、と思った。カトリックの教義では、自分に残存する罪の要素を滅するために、死後に「煉獄」あるいは浄罪界という場所に行って、罪の分量に応じた期間を過ごさなければならない、とされている。期間は 3日だったり 1週間だったり 10年だったり 1,000年だったり。それが終わると晴れて天国に入れるのだ *³。

でも自分はプロテスタントなので、死んだらすぐ天国に行く、っていう教義を信じていた。シンプルでいいよね。気がかりだったのは、プロテスタントでも議論が分かれる点があることだった。厳格な考え方だと、生きている間に自分の身体で犯した罪は、死んだ後に裁かれて、それから天国に入る、っていうルートを取る *⁴。ゆるやかな考え方だと、恵みによってすべて赦されて、だから、一切なにも裁かれることなく、死んだ瞬間に天国に入る、っていうルートを取る *⁵。

いったい自分は、どっちのルートで天国に行くんだろう? 裁かれるルート? 裁きを免除されるルート? こればっかりは死んでみないとわからない。だから死ぬしかない。死のう。そう思った。まあ、別に思っても思わなくても、寿命によって死ぬことは決まっていたわけだけど。で、実際に死ぬ日が来た。だんだん全身の力が抜けてきて、呼吸が浅くなって、意識がもうろうとして、まるで深いプールのなかに、すーっと沈み込んで行く感覚。ああ、いよいよだな、と思って、声にならない声でつぶやいた。イエスさま、って。。。

次の瞬間、ぶるん、っていう感じがして、緑色の草原に立っている自分がいた。そして、感動的なイエスとの対面。こぼれる涙。でも、涙が出るたびに天使が近づいて来て、ハンカチで全部ぬぐい取ってしまう。何度でも、何度でも。

彼らの目の涙を
ことごとくぬぐい取ってくださる

それから、あたりをキョロキョロ見回していると、ウェルカムキットを抱えた天使が近づいて来て、親切に手続きやオリエンテーションをしてくれて、第 451階層に200メートル四方の森と庭園がある城館を与えられることになって今に至っているわけだけど。その過程で、裁かれる・裁かれない、っていう話は一切なかった。。。

不思議なのは、ベッドで臨終の最後の息を吐いた瞬間と、ぶるん、って感じて新しいエルサレムに着いた瞬間のあいだに、なんだか記憶の欠落があるような気がすることだった。だから、係の天使に聞いてみたんだ。「ぶるん、ってなる直前の自分はどうなっていたんですか? ずーっと気になってたんですけど、結局のところ、死後の裁きというやつを自分は受けたんですか? それとも裁きをスキップしたんですか? なんだか思い出そうとしても思い出せないんです」って。

そしたら、天使はふところからポケットサイズの「神の本」(聖書)を取り出して、この聖句を読み上げたんだ。

わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
ヘブライ人への手紙 8:12 新共同訳

そして天使はこう言った。。。

「ここに書いてあることは、神はあなたの罪を忘れたので、二度と思い出さない、ってことですよ。で、神の記憶から消えたものは、宇宙からも消えるんです。なぜなら、神は存在するすべてのものについての完全な記憶を持っている唯一の存在ですからね。つまり、神が忘れるイコール宇宙から消える、っていうことなんです。さて、あなたが犯した罪について、また、あなたの罪が死後に洗いざらい明るみに出されて裁かれたかどうかについては、何ともお答えのしようがありません。記憶がないからです。記憶がないというのは、神の記憶もない、天使の記憶もない、あなたの記憶もない、他人の記憶もない、ということです。しかし、ただひとつ言えることは、主イエス・キリストが(深々と頭を垂れて「このお方に栄光が世々限りなくありますように」)あなたのために十字架にかかり、三日目に復活し、おかげであなたは今日ゆるされて、生かされて、ここにいる、っていうことです。えーと、この事実だけで充分ですよね? もしご不満があれば、記録局に照会することもできますけれど、なにせ、ね、ぜーんぶ消去されてしまっているので、結局のところ同じ答えしか返って来ないと思いますが。」

この天使の言葉を聞いた時、なんだか腑に落ちた。新しいエルサレムに来てからというもの、悲しみや嘆きや労苦といった感情が消えてしまったばかりか、それがどんな感じだったのかさえ思い出せなくなっていたんだけれど、それは当然だったんだ。だって、神の記憶からも、天使の記憶からも、自分の記憶からも、宇宙からも、消えてしまったんだから。自分の罪も、他人の罪も、すべての罪が。

彼らの目の涙を
ことごとくぬぐい取ってくださる
もはや死はなく
もはや悲しみも嘆きも労苦もない
最初のものは
過ぎ去ったからである

註)
*1.  Cf. ローマ 8:28
*2.  Cf. コリント一 15:4-8
*3.  カトリック教会のカテキズム 1030
*4.  コリント二 5:10
*5.  ヨハネ 5:24

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