オチビサンとシン・ゴジラの間にあって悪魔を思い、今日するべき備えをする、っていう話です。
コロナのパンデミックでステイホームしていた間、安野モヨコ『オチビサン』1~10巻を読んでいた。
鎌倉のどこかにある豆粒町を舞台に、主人公のオチビサン、読書家のナゼニ、食いしん坊のパンくい、ご隠居のおじい、はぐれ雲のシロッポイが織りなす日常が、版画風のタッチで描かれている。
これがねー、読んでいると癒されるのよ、ほんと。。。
今日の聖書の言葉。
オチビサンの世界には、クスッと笑いを誘うちょっとしたイジワルはあるし、存在することのはかなさ・さびしさ・ため息みたいなものも出て来るんだけど、およそ邪悪なものはその片鱗や影すら無い。
どこまでもほのぼのとした世界なのだ。
そして、それは、なんと現実の世界から隔たっていることか。。。
これに対して、安野モヨコのパートナーである庵野秀明が制作した『エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』は、現実の酷さを爆発的に過酷にした世界がこれでもかっ、これでもかっ、と描かれる。けっこうグロいし。。。
特にゴジラが青白い炎を吐いて首都が全滅するシーンなんかは、絶望的な気持ちになるよね。。。
おんなじアンノなのにモヨコとヒデアキ、どんだけ両極端やねん!
世界中のひとびとが平和な生活を希求している。家族や親しい友人と食卓を囲んで、道端の花を愛でて、季節の折々に遠足にでかけて、雨の夜は読書に耽って、みたいな穏やかな生活。。。
でも、その希求を無情に踏み潰して廃墟にするゴジラみたいな禍々しい世界の現実。。。
そういう過酷な現実は「悪魔」と名付けるしかないよね。聖書もそう言ってるし。。。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように
神の武具を身に着けなさい
悪魔が存在しないオチビサンの世界と、巨大な悪魔が襲来するエヴァンゲリオンやシン・ゴジラの世界。。。われわれの現実は、この両極端の間にあって無数のグラデーションで展開されていて、今日は少しオチビサン寄りだと思ったけれど、明日はエヴァンエリオンやシン・ゴジラ寄りになった、というふうに絶え間なく移り変わって行くのだろう。
そういう現実に放り込まれているのであれば、やっぱり、のほほんとしてはいられないよね。いったいどうしてなのかわからないけれど、この世界は安全と危険の間を振子のように揺れ動く構造になっているのだから。
巨大な悪魔の襲来。それがどんなふうに自分の世界に起きるのか、想像することすら恐ろしい。けれど、その襲来に対して自分はいま備えをしなきゃいけないと思う。
それはべつに AK-47を部屋に置くとか、ジャベリンを町内会の倉庫に備蓄するとか、核兵器を共同保有するとか、そういうことではない。
どんなに巨大な悪魔が襲来しても決して折れない希望を心に持つことが、自分がしなければいけない備えなのだと思う。
それは、たとえどんな状況に置かれたとしても、敵を愛し、迫害する者のために祈る、イエスに似たキャラクターになること。もし巨大な悪魔によって殺されても、イエスが復活したように自分も復活すると信じて、最後の瞬間まで希望を捨てずに生きること。。。
そういう自分になることが、今日するべき備えだと感じている。
そりゃ、サキエルやラミエルやシン・ゴジラが襲来してから慌ててそうなりたいと思っても遅いよね。いまはまだ少しオチビサン寄りの日常にあって、その備えを始めよう。
註)
Photo: jun560
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