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#983 きょう自分にあたえられた自由意志を行使する、っていう話です。

自分は自由に生きたい、っていう気持ちと。。。

その気持ちに浮き沈みがある、っていう現状と。。。

それらふたつのはざまにあって、日々ゆらぐボートのような状態。。。

それが人生かもしれないねー。

今日の聖書の言葉。

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。
詩編 42:12 新共同訳

そもそも「自由」っていうことが、ほんとに宇宙に存在するのか、ってことなんだけど。。。

その議論をつきつめて行くと、決定論 vs 非決定論、っていう神学論争になってしまう。

興味深いことに決定論 vs 非決定論っていう論争は、神学や哲学ばかりか科学や法学にまで及んでいるんだよね。

しかも、どんなに議論したところで決着がつかないイシューになっている。

いったい自由はどのように宇宙に導入されたのか、ってことを考えるとき、神学なら「神がそう設定したから」っていう答えが用意されている。

それはつまり「神」が人間に自由意志をあたえた、ってことだ。

で、残念なことに人間はその自由意志を誤用した、っていうストーリーを聖書は提示している。

どういうことかというと、人間は自由意志を行使して、神に従わない生き方を選択した、ってことになるんだよね *。

自分的にその考え方は直観に照らして正しいんじゃないかと思う。

だってさ、きょう・いま・この瞬間を生きる自分の目の前に、ちゃーんと選択肢が示されていて、神に従って生きるか or 従わないで生きるか、どちらでも選べるようになっているわけだから。

もちろん、自由意志で選択したことの結果については、良い方向に出たり(自分にとって)悪い方向に出たり(自分にとって)あるいは、良い方向に出たり(神にとって)悪い方向に出たり(神にとって)ってことになる。

スゲーなーと思うのは、神は神だから神にとって結果が悪い方向に出た場合に「神」の権限を使ってすべてリセットできる、ってことだよね。

で、ほんとのほんとにリセットしちゃった、っていうのが聖書の言うノアの洪水なんだろうなー、って思う。

しかしね。。。

そういうことをやっていると、神は「神」にとって意向に沿わない出来事が起こるたびに宇宙を際限なくリセットしなきゃいけないことになる。

だって、すべての人間が自由意志を行使することで、膨大なボリュームの「神の意向に沿わない出来事」が日々発生しているわけだから。。。

これじゃあセカイノオワリが何億万劫回あったってぜんぜん足りないことになる。

なので、神は宇宙をリセットする完全に別の方法を実行するに至ったんだと思う。

で、それがイエスの十字架と復活なんじゃないか、って自分は思うんだ。

新約聖書は、個々人がイエスに結ばれることでまったく新しい存在になる、って言ってる。

証拠聖句が、これ。

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
コリントの信徒への手紙二 5:17 新共同訳

さて。。。

気分が高揚するときもあれば、落ち込むときもあるわけだけど。。。

気分が高揚するときは、どうしても自分の考えは高慢になるし。。。

逆に、落ち込んでいるときは、どんどん悲観的になってしまう。。。

そういう、たよりにならない気分にぐるぐるふりまわされて生きる、っていう選択肢がAだとして。。。

目の前にはもうひとつの選択肢、つまり、イエスの十字架と復活によって自分をまったくリセットする、っていうBがある。

Aを選べば、半永久的にぐるぐるすることになるし。。。

Bを選べば、自分は過去からも現在からも未来からも解放された、まったくあたらしい人間として、いま・この瞬間・あたらしい宇宙のなかに立つことになる。

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。神を待ち望め
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と
わたしの神よ

そりゃあ、もちろんBのボタンをポチッとしてしまうわけなんだけどね。

註)
*  Cf. 創世記 3:1ff

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