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納得感についてのコペルニクス的な転回が必要なんじゃないか、ってことから、じゃあ、極限まで納得をそぎ落したら、最後に残るものは何か? っていう話です。

そんなの、ぜったい納得できないっ! って思って、思考を停止しちゃいたくなる。。。

けれど、座り込んでいても、進んで行ってしまうんだよね、人生は。。。

納得できるか、納得できないか、ってことに重きを置いていると、もうね、納得できかねることが、次から次へと起きて来るわけで。。。

なので、だんだん、適当にかわすようになって来る。。。

また来ましたね、ひょい、ひょいの、ひょーい、みたいに。。。

だってさ、いちいち立ち止まってなんかいられないじゃん。

でも、そうやって進んでいると、だんだん、たまってくるんだよね。この、何とも言えない「納得できない感」が。。。

重層的、複合的、多重的、圧倒的に積み重なって来る、納得できない感。。。

さすがに処理しようにも、どこから手を付けていいのか、わからない状態。。。

この「納得できない感」から解放される方法って、あるんだろうかね?

納得できないなら、納得できるような答えを、納得が行くまで追求する、っていうのが、納得を得るための正攻法なんだろうけど。。。

でもねー。。。なんだろう。。。納得を追っても追っても永遠に逃げて行くような気がして。。。

それは、まるで、夏場のアスファルトのかなたにカゲロウを追うみたいな感じだ。。。

なので、納得感についてのコペルニクス的な転回が必要なんじゃないのかなあ、と思う。

今日の聖書の言葉。

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙 1:17 新共同訳

今日の聖書の言葉は、こう言ってる。

福音には、神の義が啓示されています

神の義って、なんぞや? ってことになるんだけれど、自分的には、「神のココロが満足している状態」が、神の義だ、と思っている。

で、ここで、ハタ、と思わされるんだよね。

そもそも、自分が納得する必要なんて、ないんじゃね?って。

神が満足しているんなら、それでいいじゃん、って。

神の満足、でピリオド。

まあ、それを言ったら、身も蓋もない気もするんだけど。。。

でも、神が神の理由で神なりに納得して、それで神のココロが満足している、って言うんだったら、それでいいんじゃないのかなあ、と思う。

もちろん、神のココロが満足する方法というのは、非常に奇妙であって、われわれの側からして見れば、納得が行かないし、理解もしにくいし、だから、人間側としては満足できない、という意見が大勢かもしれない。。。

でも、それでも、神は神として納得もし満足もしている、と神が言うのであれば、仕方ないじゃん。だって、神なんだからさ。。。

その、神のココロが満足する方法、というのは、これだ。

罪と何のかかわりもない方(イエス)を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
コリントの信徒への手紙一 5:21 新共同訳

神は神の方法。。。イエスの十字架と復活。。。で納得し、神のココロは満足している。その結果として、神は、この自分についても満足している。そういうことが「神の事実」である、と言う。。。

そうすると、最後に残る問題は。。。

その「神の事実」を、自分の事実として受け取るかどうか、ってことになって来るんだよね。。。

で、そこにおいては、自分の納得感っていうのは、完全に置いてけぼりにされている。だって、それは、自分が納得するかどうか、という問題ではなく、神は納得もし満足もしています、ってだけのコトなんだから。

なので、自分の納得感は、ぜんぜん問題にされない。必要なのは、極限まで自分の納得をそぎ落したあとに残る「信仰」だけなんだ。

福音には、神の義が啓示されていますが
それは、初めから終わりまで
信仰を通して実現されるのです
「正しい者は信仰によって生きる」と
書いてあるとおりです

よく言うじゃん。信じるか・信じないかは・あなた次第です、っていうやつ。。。ほんと、それだよなー、と思う。

じゃあ、信じたら、これまで納得できなかったことが、急に納得できるようになるか、って言うと、そんなことはないわけで。。。

だた、ひとつ言えることは、神のココロは完全に満足している=神はこの自分にも完全に満足している=だから自分も満足して生きてみよう、ってことにはなるんじゃないかと思うんだ。

神の満足を自分の満足として生きる。そこに納得する、じゃなかった、それを信じるしかないんじゃないのかな。。。


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