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世界最大級の罵声を浴びせられたとき、理屈や仕組みはワカラナイけれど、それでも、救われる可能性はあるのか、っていう話です。

世の中には、相手を罵倒するために、いろんな言い方がある。

よく使われるのが、バカ、とか、アホ、だよね。

イエスは、バカとかアホ(新約聖書ではラカとかモレ)って、ゼッタイ言っちゃダメ。言ったら、アンタ、大変なことになるよ、って注意しているけれど 。。。

兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書 5:22 新共同訳

でも、ついつい、口から出ちゃう。。。

自分は関東人なので、アホ、は、ほとんど使わないんだけどさ。。。

だから、一日の終わりに反省する。。。

主イエス・キリスト、神の子、救い主。罪人つみびとのわたしを、あわれんでください。わたしは今日、コトバ・オモイ・オコナイ・オコタリにおいて、たびたび罪を犯しました。主よ、あわれんでください。。。

そのように祈らずに終わる日は、ほぼ無い。。。

今日の聖書の言葉。

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
ヨハネによる福音書 15:4 新共同訳

自分的には、世界最大級の罵倒語は、コレだろうなあ、と思っているものがあって。。。

どういうのかというと。。。

このぉ、断善根だんぜんこんのイッチャンティカがっ!

ってやつ。。。

これは、仏教から来ている罵倒語なんだけれど。。。

およそすべての人間は、こころのなかに仏種ぶっしゅという外来要素がインプットされていて、それがあるからこそ、ホトケサマのありがたいコトバを聞くと、受容して、悟りに至ることが可能になる。。。そのように仏教では考えられている。

ところが、ね。。。

仏種を持たない人間がいるんじゃない? いるだろう? いるよね? あー、いるいる、アイツだろ? みたいな議論が起きてきて。。。

そこから大議論になったのが、じゃあ、仏種を持たない人間も、最終的には救われるのか・あるいは・絶対に救われないのか、という問題。

この、仏種を持たない人間を、断善根のイッチャンティカ、って言うんだ。

おもしろいことに、この問題に触れている大乗涅槃経では、本体部分では「イッチャンティカは救われない」ってなってるんだけど、後から足された拡充部分では「イッチャンティカでも救われるかも」ってなっているんだ。

この議論って、なんとなく、エミール・ブルンナー(1889-1966)とカール・バルト(1886-1968)の間で戦われた「結合点」をめぐる神学論争に似てるなあ、とつねづね思っている。

どういうところが似ているのか、っていうと。。。

自分が救われるには、神のコトバを聞いて、それを受け取る必要がある。

それは、まあ、そのとおりだよなあ、と思う。

問題はその先だ。

神のコトバを受け取れる、ってことは、受け取れるようにさせている機能が、自分のなかに備わってる、ってことだよね?

この、神のコトバを受け取る機能を、神学的には「結合点」って言うんだけど。。。

ブルンナーは「結合点は、ある」という立場。で、人間に刻印されているイマゴ・デイ(神のかたち)こそが、結合点だ、と主張した。

これに対して

バルトは「結合点は、ない」という立場。イマゴ・デイとは三位一体の類比としての人間の社会性に過ぎず、それ以上でも以下でもない、と主張した。

この議論は神学論争だから、どんなにやっても決着を見ることはないんだけど。。。

まあ、「新しいエルサレム」のパーリーゲート・カフェ(真珠門茶館)に行けば、イエス・バルト・ブルンナーの鼎談が開催されていると思うので、そこで究極の答えを聞くことにしよう。

その日が来るまでは、自分の考えを自分なりに保持することになるけれど。。。

自分は、現時点では、こう感じている。

「結合点は、ない」(ドイツ語だから、ナインか)っていうバルトの立場は、一見すると非人間主義的に見える。

でもねー。。。

見方を変えると、バルトの立場って、すべての人間に希望をあたえる考え方でもあるよなー、と思う。

どういうことかというと。。。

どんなにスゴイ人間でも、どんなにダメな人間でも、神の目で見たら、みーんな結合点を持ってない、って意味で、みーんな同じになっちゃう。

そういう意味では、バルトの考え方って、究極のフラット化理論なのかもしれないなー、って。

じゃあ、みーんなダメ、仏教的に言えば、みーんな断善根のイッチャンティカであるのなら、どうしてわれわれは救われることができるんだろうか?

バルトによれば、それは、ワカラナイ。。。

ワカラ・ナインかいっ(笑)

けれど、神のコトバが発せられると、なんかワカラナイけど、救われちゃうんだよねー、ってことになる。それを「徴発される」って、言う。

わたしにつながっていなさい
わたしもあなたがたにつながっている

するとね。。。こういうことになるんだ。。。

神のコトバ=イエスのコトバを、ただ、聞いただけで、その瞬間、なんかワカラナイけど、自分はもうイエスにつながっちゃう、徴発されちゃう、っていう。。。

そういうことになる。

なんでそうなるのか、それは、ワカラナイ。

てか、ワカル必要もないし、ワカッチャいけないんだと思う。。。

だって、こう・こう・こういう理屈・こういう仕組みで・オレはワカルんだ・ワカランやつはダメだ、って言い始めた瞬間、他者へのマウンティングが始まり、増上慢の堕地獄になっちゃうわけだから。

自分はいま、確かにイエスのコトバを聞いている。。。

わたしにつながっていなさい
わたしもあなたがたにつながっている

いま、イエスのコトバを聞いた。。。

その瞬間、もう、自分はイエスにつながっているんだ。

理屈や仕組みはワカラナイけれど、でも、自分がイエスにつながっている、ってことはワカル。実感するんだ。

なんでワカルんだ?って言われるかもしれないけれど。。。

でも、それは、ワカルからワカルんだ、としか言いようのないものだ。

そして、それだけじゃない。

神のコトバ=イエスのコトバは、今日も、すべての人に向かって発せられている。

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