見出し画像

偶然? 必然? 共時性? 介入?

昨日の note の結論部分で引っ張った ローマ 10:13 だけど、なんと YouVersion の「今日の聖書の言葉」に選ばれてた!

これって、偶然? 必然? それとも 共時性 (シンクロニシティ―) ?

ここはクリスチャンらしく、神の導き、あるいは、神の介入、と考えることにしよう。

今日の聖書の言葉。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
ローマの信徒への手紙 10:13 新共同訳

イエスの名を呼びさえすれば、すべての罪は赦され、あらゆる不義はきよめられ、永遠の命が与えられるという。。。

これはなにもパウロの専売特許ではなく、ペトロもペンテコステの日に同じ言葉で説いている *¹。

主の名を呼び求める者は皆、救われる

世界の数ある「易行道」のうちでもこれは最勝の易道(いぎょう)ではないだろうか。

これを故小西芳之助牧師は「称名」(しょうみょう)の信仰と呼んだ。

ただただ「イエスさま!」と呼びさえすれば、それで充分。

呼んだ瞬間、回心も、義認も、新生も、養取も、聖霊の内住も、聖化も、ウニオミスティカ(神秘的合一)も、オールドサルティス(救いの機序)のすべてが、ぜーんぶ、いっぺんに生起してしまう。

キリスト教神学の教えと実践を、いったいどこまで濃縮可能かわからないけれど、おそらく、もうこれ以上圧縮不能というぐらい極小まで圧縮したのが、イエスの御名を呼ぶ「称名」ではないかと思う。

ここで注意したいのは、人間側の信仰が主体となって称名という行為を動作させて、それが引き金となって神が反応してわれわれを救ってくれる、という構図では「ない」ということだ。

われわれの信仰がわれわれを救う、という考え違い・誤りを小西は生前の説教で何度も口酸っぱく指摘した *²。

救いはひたらすら神の一方的な恩恵によるのだ。

その展開はこうだ。

父なる神は、十字架の死に至るまで父のこころに従順したイエスの「信実」(ピスティス=信仰)のゆえに、イエスを「神のこころの完全な満足」(ディカイオス=義)とした。

その上で、父なる神は全人類をイエスのなかに数え入れることとし、そうすることで、イエスにおいて人間を義とした。

こうして人類はイエスにあって「神のこころの完全な満足」となり、義となっている。

以上が神側の視点で見た「神の事実」だ。

上記の神の事実においては、人間側の信仰、あるいは、人間側の行為が寄与する部分は無い。まったく無い。というか、ぜんぜん無い。

ただただ、神の側の一方的な恵みによって、われわれは救われる。で、救われた結果として、口をついて出てくるのが「イエスさま!」という称名だ、ということになる。

なので、「イエスさま!」と呼んだ瞬間、救われる、という論理的順序ではなくって、信仰も行いも欠く自分が、神の一方的な恵みによって救われたという、その永遠の相における祝福が、瞬間の相に凝縮し・かつ・噴出して来るのが「イエスさま!」なのだ。

というわけで、もうね、随喜の涙を流しながら、唱え続けるしかない。。。

イエスさま! イエスさま! イエスさま!

註)
*1.  Cf. 使徒言行録 2:21
*2. 『小西芳之助導源 わが主イエスよ~恵心流キリスト教・説教集』p.154f

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?