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シングルコア・プロセッサーの人生から、デュアルコア・プロセッサーの人生へ。いまこの瞬間にスイッチする。

小学校高学年のとき、叔父の家からスタンダールの『赤と黒』(1830) を借りて読んだ。衝撃的だったのは、主人公の若者ジュリアン・ソレルがラテン語で新約聖書を全文暗記していたにもかかわらず、素行の悪さが変わらず、その結果、破滅を迎える、ということだった。

新約聖書をまる暗記しても、人間は変われないの? っていう途方もない無力感をおぼえて頭がクラクラし、読了後にスゴイ気持ち悪くなって、嘔吐してしまった。小学生にはちょっと刺激が強すぎたのかねー。

その後、大人になってから新約聖書のエフェソの信徒への手紙を Today's English Version (現代英語訳) で暗記することにチャレンジしてコンプリートできたんだけど、そのとき、聖書を棒暗記しただけでは自分は変われないことを痛感した。

まあ、これは、スタンダールの創作と、一個人の体験と、サンプル数わずか2件にもとづく感想なので、断定的なことは言えない。ほかのひとが聖書をまる暗記した場合、ぜんぜん別の結果になる可能性もあるわけで。。。

今日の聖書の言葉。

わたしは仰せを心に納めています
あなたに対して過ちを犯すことのないように。
詩編 119:11 新共同訳

もし人間がコンピューターなら、レジストリー(記憶保管庫)からロードしたデータのとおり演算して、命令されたセットを実行するだけだ。なんて単純な世界だろう。

でも、人間の場合、というか、少なくとも自分の場合、こころにたくわえた聖書の言葉のとおりに意志し・決定し・行動できるか、というと、それはなかなか簡単なことではない。

自分には意志の自由が与えられている。で、その意志が、どういうふうに作動するかは、その瞬間が来てみないとわからない。。。

ありがたいことに、こころに収めた聖書の言葉とおりに意志を働かせられる瞬間もあるし、おそろしいことに、それとは逆に意志を働かせてしまう瞬間も、ある。

それは、まさに、パウロが言っている境地だ。

わたしは、自分のしていることが分かりません
自分が望むことは実行せず
かえって憎んでいることをするからです
 *¹

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう
死に定められたこの体から
だれがわたしを救ってくれるでしょうか
 *²

聖書を知っていて、内容を理解していて、記憶に保存していても、なお、罪に対して無力である自分。そんな自分を、だれが救ってくれるのか?

この、だれが自分を救ってくれるのか? という問いから、もう半歩進むと、だれが自分を終わらせてくれるのか? という問いになるんだと思う。

そして、その問いに応えてくれるのが、イエス・キリストなのだ、と思う。

新約聖書が言っているのは、自分はキリストと共に十字架につけられて死んだ、そして、復活のキリストがあたらしい自分を生きている、ということ。

生きているのは、もはやわたしではありません
キリストがわたしの内に生きておられるのです *³

この状態をコンピューターにたとえてみたら、デュアルコア・プロセッサーみたいなもんだろうか。

古い演算装置(自分)のとなりに、いまや、あたらしい強力な演算装置(イエス)が組み込まれた! レジストリー(記憶保管庫)に入っているデータを古い演算装置にロードすると、非力だから発熱してフリーズしてしまう。ところが、あたらしい演算装置にロードすると、サクサク動くのだ。

問題は、それでもまだ自分には意志の自由が残されている、ということ。古い演算装置とあたらしい演算装置のスイッチの切り替えは、自分の意志で選べてしまう。

なので、自分の意志をイエスに「ゆだねる」こと。新約聖書の表現で言えば、聖霊の導きに従って前進することが、自分には必要だと感じている。

しかも「ゆだねる」ことは、聖会や修養会で一回決断したらその後ずっとデフォルトモードになってしまうというものでは、ない。そうだったら、すごい楽なのに。。。そうではなく、瞬間、瞬間、ゆだねることが必要なのだ。

それは、毎秒切り替わる意識のフレームごとに、イエスにあけわたし、イエスにゆだねる、という感じだ。

註)
*1.  Cf. ローマ 7:15
*2.  Cf. ローマ 7:25
*3.  Cf. ガラテヤ 2:20

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