見出し画像

#943 歩みは遅々として進まないけど、っていう話です。

先史時代の遺跡の発掘現場から、こういう発見がありましたー、みたいなニュースをときどき目にするけれど。。。

それって、ふたつの極端な発見があるよなー、って思う。

ひとつは、凄惨な殺戮が行われた痕跡がありました! みたいなやつ。

その凄惨さの内容については、言葉にするのもはばかられるほどオソロシイので、略。

もうひとつは、お互いがお互をいたわりあっていた痕跡がありました! っていうやつ。

その内容については、ほんと、いろいろあるんだけど、まあ、それも略。

今日の聖書の言葉。

どのようなときにも、友を愛すれば
苦難のときの兄弟が生まれる。
箴言 17:17 新共同訳

そういう痕跡をみると、人類っていうのは、最初は殺し合っていたのか、それとも、愛しあっていたのか、どっちだったんだろうなあ、って考えさせられる。

聖書を読むと、たぶん両方だったんじゃないかな、って思うんだけど。。。

だって、聖書には、どちらもうかわがせるエピソードが満載だからねー。

そういう意味では、聖書って、人類の歩みのリアリティを反映しているんじゃないかと思う。

しかし、世界はこの先、憎しみと愛と、どっちに収束して行くんだろう。。。

願わくは、愛に収束して行ってほしいと思うけど。。。

でも、いま世界で起きていることは、予断を許さないよね。

イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言った *。

これは、人類の生き方を決めるひとつの方向性だよね。

まあ、それが実現可能かどうかについては簡単に言えない難しさがあるけれど。。。

でも自分は、イエスが言った方向性を目指して行きたい、って思っている。

そのイエスは、愛についてシンプルな定義をした。

これだ。

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書 15:13 新共同訳

イエスのすごいところは、この定義を口で言っただけでなく、実行して見せたところだよね。

イエスは全人類の身代わりとなって十字架にかかり、神としての命をついやし尽くすことによって、完全な罪のゆるしと永遠の命をあたえてくれた。

このイエスの十字架を見るときに、わかるんだ。

ああ、イエスは自分を愛してくれている、そして、イエスは自分を友としてくれている、ってことを。。。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
ヨハネによる福音書 15:15 新共同訳

イエスにとって友であるのは、もちろん、自分だけではない。

イエスは全人類のために死んだわけだから、それはつまり、全人類がイエスの友だ、っていうことになる。

それはべつに、われわれがだれかをイエスの友と感じるかどうか、っていう感覚には依拠していない。

ただ、イエスのほうで一方的に全人類を「友」として認識している、っていうことなのだ。

だから、次のステップとして、自分は自分の感覚を、このイエスの認識に合致させて行かなきゃいけない、ってことになるんだと思う。

そこで、こういうふうに考えてみる。

イエスにとって、自分は、イエスの友である。

イエスにとって、あのひともこのひとも、イエスの友である。

だから、自分にとって、あのひともこのひとも、友である。

。。。ってなるはずなんだよね。

そうすると、自分のミッションステートメントというのは、こういうことになる。

イエス愛するように、相手を愛する
そして
イエス愛するように、相手を愛する

こうやって書いてみると、すごいシンプルなミッションステートメントなんだけど。。。

これがほんとうに出来るようになったら、自分の人生はミッションコンプリートになるんじゃないかと思う。

でもそれは、人類史の歩みと同様に、まだまだ時間がかかりそうだ。

註)
*  Cf. マタイ 5:44

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?