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イエスが見えないこの世界で、ひたすらおどる。。。

聖書を読んでいると「難所」というか、チョット立ち止まる箇所がいくつかある。難所だと感じるのは、読み手にインプットされている先入観があるからなんだろうなあ、と思う。

今日の聖書の言葉なんか、素直に読めば何も問題ないけれど、読み手の自分には神学的な先入観がある。それは、人間は「行い」によっては救われない、「信仰」によってのみ救われる、という前提だ。

行いによって救われる、という考え方は「行為義認」と言い、信仰によって救われる、という考え方は「信仰義認」と言う。自分的には価値判断が決まってしまっていて、信仰義認が正しく、行為義認は誤りだ。

これが前提として入っているから、それでもって聖書を読むと当然、アレっ? て立ち止まることになる。

今日の聖書の言葉。

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
マタイによる福音書 7:24 新共同訳

ほーら。「行い」が重要だってイエスも言ってるでしょ? イエスの言葉を聞いて、ちゃんと行うことが大切だよ。。。って言われている気がする。

でも、とまどう。だって、新約聖書のほかの箇所には、救われるのは「行い」ではなく「信仰」による、って書いてあるじゃない? 

わたしたちは
人が義とされるのは
律法の行いによるのではなく
   信仰によると考えるからです
 *¹

「義」とは、神のこころが完全に満足している状態、という意味だ。イスラエル・ユダヤ人にとって、どうしたら義とされるか、つまり、どうしたら神のこころを完全に満足できるか、ってことが、最重要課題だった。そして、義の追求におけるチャンピオン的存在が、ユダヤ教のラビたち(律法学者)だった。

ラビたちは、神のこころはあますところなく「律法」において示されているから、律法の要求をすべて行うことができれば、人間は神のこころを完全に満足させることができる、と考えていた。これは、すごく楽観的な考え方ではあるよね。

ところが、ラビたちが追求する「義」についてイエスはこう言ったんだ。

あなたがたの義が
律法学者やファリサイ派の人々の義に
まさっていなければ
あなたがたは決して
  天の国に入ることができない
 *²

このイエスの発言は衝撃的だ。だって、ラビたちが推奨するレベルの「行い」をしていたぐらいでは、天国に行けないよ、って言うんだから。

しかもイエスは、それすら超えて行く発言をした。これだ。

天地が消えうせるまで
   律法の文字から一点一画も消え去ることはない
 *³

これは一見すると律法の優位性を説いているように見える。ところが、これを次のイエスの発言に連結した場合、ラビたちにとってはトンデモナイ意味を持ってくるんだ。

天地は滅びるが
わたしの言葉は決して滅びない
 *⁴

どういうことかというと。。。律法は天地が滅びるまで消え去らない。なので、天地が滅びる時には律法も消え去ることになる。ところが、天地が滅びてもイエスの言葉は決して滅びない、って言うんだ。

律法が消え去っても、イエスの言葉は消え去らない。だとしたら、イエスの言葉は、律法に対して優位していることになってしまう。

「わたしの言葉は律法に優位する」って言ってるように受け取れるイエスの発言を聞いて、ラビたちは穏やかではいられなかった。だって、ラビたちにとって律法は最終的かつ絶対的な権威であったわけだから。ここから、イエスとラビたち=最高法院(サンヒドリン)のあいだの緊張が高まって行く。福音書に記されている通りだ。

そういうもろもろをふまえた上での今日の聖書の言葉。

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている

それはつまり、律法の権威をはるかに超越する「イエス」の言葉に聞き従いなさい、っていう意味になるんだよね。

じゃあ、イエスは「義」について、どう言ってるんだろう? 律法を行うことではなく、イエスに聞くことによって義とされるとしたら、それはどういう仕組みによるんだろう?

「義」について、イエスはこう言ってる。

義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
ヨハネによる福音書 16:10 新改訳2017

このイエスの言葉は、ちょっと謎めいているけれど、自分はこういうふうに受け取っている。

神のひとり子であるイエスは十字架にかかり・復活し・天に昇り・栄光を受け・神のこころを完全に満足させ・神の「義」となった。こうして、神の義は全人類に分けあたえられ、われわれはイエスによって義とされている。

われわれは、いま、イエスの昇天後の世界を生きている。この世界では目でイエスを見ることはできない。だって、イエスは天に昇ってしまったわけだから。見ることができないから、できるのは、信じることだけだ。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見ていないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
ペテロの手紙第一 1:8 新改訳2017

イエスに聞き従うとは、見えないイエスを信じることだ、と自分は思う。

じゃあ、見えないイエスを信じたら、どうなるのか? 上記の聖句にあるとおり、ことばに尽くせない栄えに満ちた喜びにおどる、ということになる。

つまり、おどるしかない、ということなんだよね。おどるんだよ、おどる。。。

註)
*1.  Cf. ローマ 3:28
*2.  Cf. マタイ 5:20
*3.  Cf. マタイ 5:18
*4.  Cf. マタイ 24:35

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