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救世軍による世界最初の長編映画制作

救世軍はオーストラリア初の映画制作者として、映画史に画期的な足跡を残しました。

当時の映画の呼称であった「シネマトグラフ」の広告

救世軍は1892年に「ライムライト伝道部」を設立しました。その名称は、ライムライト(石灰光)に由来しています。当時は映写機の横に置いた化学反応器で可燃性ガスを作り、石灰の固まりに噴射して白熱させ、それを光源として使っていました。

救世軍ライムライト伝道部は、世界最初の長編映画かつ世界最初の宗教映画である「十字架の兵士」を製作したほか、シドニーでのオーストラリア連邦発足記念行事や、メルボルンでのオーストラリア第一回国会開会式を撮影するなど、閉鎖されるまで約20年にわたり、多くの業績を残しました。

映画伝道部の創始者、ジョセフ・ペリー大尉

救世軍ライムライト伝道部は、オーストラリア最初の映画スタジオをメルボルンに開設し、人々の日常生活を描いたドキュメンタリー・フィルムや、ナレーション付きのフィクション映画を初めて製作したほか、国内で上映ツアーを敢行して、まだ当時珍しかった映画をオーストラリア各地に紹介しました。オーストラリア映画産業の草創期の担い手の多くは、救世軍の映画スタジオで訓練を受け、経験を積んだ人たちでした。

ライムライト伝道部の映画撮影ユニット

救世軍の映画伝道のはじまりは、救世軍大尉ジョセフ・ペリーが、小隊(教会)の活動資金を得るために写真館を開いたことにさかのぼります。ペリー大尉は、刑務所伝道のためにスライド映写機を使っていました。救世軍創立者ウイリアム・ブース大将が世界規模の社会改良事業計画である「最暗黒の英国とその出路計画」の資金を得るためオーストラリア各地を訪問したとき、ペリー大尉はスライド映写機を持って宣伝ツアーに随行しました。スライドによる宣伝は大成功を収め、その結果、ペリー大尉を責任者として「ライムライト伝道部」が設立されました。

1896年にウイリアム・ブースの五男、ハーバート・ブースが救世軍司令官に就任しました。ハーバートは当時発明されたばかりの映画をオーストラリアに初めて導入しました。オーストラリア中の観客は、映画のすごさに圧倒されました。ハーバートはペリー大尉に対し、上限なく資金を自由に使って次々に映画を製作する権限を与えました。

救世軍オーストラリア司令官ハーバート・ブース夫妻
長編映画「十字架の兵士」のワンシーン

1898年にメルボルンの救世軍本営の裏手に映画スタジオが建てられ、そこでオーストラリア史上初のナレーション付きフィクション映画が製作されました。内容は、貧しい男が空腹に耐えかねてパンを盗み、刑務所に入るが、救世軍の囚人伝道によって助けを受ける、という社会的なストーリーでした。

撮影スタジオの看板
キリストに従え、という映画中のアピール

1899年に、新しく大きな救世軍士官学校(神学校)が建てられ、収容人数が大幅に増えたので、新規に候補生(神学生)を多数募集するために、宣伝映画として「十字架の兵士」が製作されました。古代ローマのキリスト教の殉教者を描いたこの映画は、1900年9月13日にメルボルン市公会堂で上映され、世界最初の長編映画かつ世界最初の宗教映画となりました。

ライムライト映画の入場チケット
ハーバート・ブース脚本・製作「十字架の兵士」のオープニング・クレジット
ライムライト伝道部の製作したスライドのワンシーン

救世軍ライムライト伝道部が製作した主要な映画作品

「メルボルン街頭シーン」(1897年10月)
「初期のテスト撮影」(1898年)
「最初のフィクション作品」(1898年5月)
「社会的な救い」(1898年)
「マオリ族」(1898年12月)
「十字架の兵士」(1900年)
「ボーア戦争の歩兵部隊」(1900年1月)
「オーストラリア連邦」(1901年1月1日)
「オーストラリア連邦議会開会式と国王行幸」(1901年5月)
「南の空の下で」(1902年)
「北部クイーンズランドのブッシュ・レンジャー」(1904年5月)
「つばめとアリエルの雇い人」(1905年)
「大記念礼拝」(1908年2月)
「十字架の勇者」(1908年-1909年)
「スコットランドのカベナンター」(1909年)

出典:
救世軍オーストラリア南部歴史軍国資料館「十字架の兵士」

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