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#951 クリスマスのシーズンは、どういう心理的効果を及ぼすのか、っていう話です。

ときどき自分のハートが石みたいに固くなってるなー、って感じることがある。

まあ、ときどきだけどね。。。

そんなふうに心が固くなってしまうのは、あれこれイヤなことが起きたときだ。

それを、ちゃーんと受け止めて、感情的にリリースできればいいんだけどさ。。。

でも、そこに失敗すると、ハートがドシドシ踏み固められて、石みたいになっちゃう。

そうすると、なんだか聖書の言葉を読んでいても、ぜんぜん入って来ない感じになるんだよね。

イカンイカン。。。

いや、遺憾、遺憾か(笑)

今日の聖書の言葉。

呼びかける声がある。 主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
イザヤ書 40:3 新共同訳

今日の聖書の言葉に出て来る「荒れ野で呼びかける声」っていうのは、バプテスマのヨハネのことを指している。

バプテスマのヨハネ。毛皮の衣を着て、ハチミツとイナゴが常食で、荒野に住みながら、毎日叫んでいた、っていう。。。

まあ、ちょっと見るとヤバい感じのひとなんだけど。。。

彼は人々に悔い改めを呼びかけた。

それに対して、なんと、何万人というひとたちが応答して、彼のもとに来たんだ。

バプテスマのヨハネがやったのは、石みたいに固い人々のハートを粉々に砕いて、やわらかくした、ってことだったんじゃないのかなー、って思う。

で、そうやって心をやわらかくされた人たちに対して、彼は何て言ったかというと。。。

ゴメン。オレは救い主じゃあない。救い主は、このひとだ!

って言って、イエスを紹介した、っていう *。

まさにそれゆえにバプテスマのヨハネは「荒れ野で道を備える者」って呼ばれたわけなんだけど。。。

それはつまり、みんなの心をやわらかくして、イエスに出会うための備えをさせた、ってことだったんだよね。

さて。。。

クリスマスが近づいて来た。

ハートが石みたいになっている自分だって、やっぱりクリスマスの準備をしないわけにはいかない。

ツリーをひっぱりだしてきて、飾りつけをする。。。

お店にいって、あのひとの顔、このひとの顔を思い浮かべながら、プレゼントを選ぶ。

それから、クリスマスのレシピをどれにしよう、って、あれこれ考える。

そんなことをやっていると。。。

あー、なんだか不思議だね。固かった心がだんだん、やわらかくなって行く気がする。

それから、おもむろに聖書を開いて、クリスマスに関連する箇所を読んでみる。

そうすると、不思議なことに、聖書の言葉が心にしみ通って来る感じがするんだ。

はい。あくまで主観的な経験です。個人の感想です。

そういう意味で、クリスマスに向かって近づいて行くこのシーズンっていうのは「荒れ野に道を備える者」であるのかもしれないなー、って思った。

その場合の「荒れ野」っていうのは、もちろん、自分のハートのことだ。

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
ルカによる福音書 2:12 新共同訳

註)
*  Cf. ヨハネ 1:29-34

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