ほんとうに納得も行き満足も行くような人生って、あり得るのか、という話です。
あらゆることに納得が行き満足が行くような生き方っていうのは、ほんとうに難しいものだよね。
そりゃ、自分の満足を追求してたらキリがないわけであって。あれも足りない、これも足りない、ってなってしまう。
まして、他人に対して「おまえはもっとこうしろ!」と要求するのは、もっとキリがないよね。だって、他人というのは自分の理解を絶した他者の他者性を持つ者であるわけだから。
今日の聖書の言葉。
義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。
マタイによる福音書 5:6 新共同訳
だから「義」つまり完全に満足した状態の追求は、どこまで行っても満たされないことになってしまう。まさに義に対する飢え渇きだね。
ところが、聖書はそれに対して「神の義」を提示するんだ。それは神が取った裏技だ。
どういう裏技か、と言うと。。。
「神の義」とは、神のココロが完全に満足した状態、ということになる。
神は神なので神の要求は永遠で無限であるわけだけど。。。だから神の要求を満たせる者は、その者もまた永遠で無限である必要があるわけなんだけど。。。
じゃあ、そういう者がこの世界にいるかって言うと、いたんだ。それがイエスだ。
クリスチャンが信じる三位一体の神観によれば「神」は父と子と聖霊で、そのうちの子、つまり、独り子である神は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼葉桶のワラの上に赤ん坊となって降り立った。イエスだ。
イエスは、だから、神である人間・人間である神、ということになる。
なのでイエスは、永遠で無限である神の要求を満たせるんだね。イエス自身が神として永遠で無限の存在であるわけだから。
そのイエスは「神」の要求を完全に満足した。具体的には、父なる神の御心に従って、全人類の身代わりとして十字架にかかり、復活したんだ。
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ローマ 4:25 新共同訳
このようなプロセスを経て、現状、神のココロは完全に満足した状態にあることになる。それはイエスによって満たされているんだ。
そして、ここから先が不思議なんだけど、新約聖書によれば、神のココロの完全な満足は全人類に適用される、と言うんだ。
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
ローマの信徒への手紙 5:18 新共同訳
これは、ほんとうにすごいセオリーだ。どうしてこういうことが可能なのか。なので「裏技」と思ってしまうんだけど、人間の論理や類推や造作を軽々と超えて行っているよね。
だから、そんなことはあり得ない、という意見は多いと思う。。。でも、これは神が神として神が満足するために神が決めて神自身で実行した方法だから、そうなるしかない。だって神だもん。。。
最後に残った問題は、じゃあ、われわれは今日、自分のココロの満足にフォーカスして生きるのか、それとも、神のココロの満足にフォーカスして生きるのか、ということだ。どちらでも自分は選ぶことが可能だ。
もし「神の義」を受け取って、神のココロの満足イコール自分の満足、と思えたら、その瞬間、自分の求めは永遠かつ完全に満たされてしまう。
そしたら、もう、欲しいものはなくなってしまうはずなんだ。
それは、詩編23:1の実現だと思う。そこに「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とあるけれど、「何も欠けることはない」はヘブライ語の原文では「求めが無い」となっている。
神の義によって満たされるから、自分は「求めが無い」状態になってしまうんだ。とてもスゴいことだし、あこがれるけど。。。
しかしそれは超絶簡単なことでもある。なぜなら、イエスの十字架と復活によって差し出されている「神の義」を、ただ受け取りさえすればいいだけなんだから。。。
いつ受け取るのよ? いまでしょ、いま。
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