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救世軍による陸海軍人伝道と戦時難民救済事業

救世軍は最前線にいた。ぼくは、ほんとうの最前線のことを言ってるんだよ。救世軍はいい仕事をしていた。しかも、弾丸が飛び交う中でやってるんだ。道で出会った兵隊に救世軍のレッドシールドクラブ(陸海軍人クラブ)の場所を聞いたら、こう言われた。「上官殿、救世軍は町のそこらじゅうでやってますよ。見つからない、なんてことはありません」
イタリア戦線の米軍兵士の手紙より

陸海軍人伝道の始まり

1882年6月、英国の救世軍士官(牧師)ポリー・パーキンズ大尉がコルチェスターに小隊(教会)を開設し、初日の集会の回心者110人中に多数の英国陸軍兵士がいました。英国陸軍コルチェスター駐屯部隊長は、これらの兵士が救世軍の室内集会や路傍伝道で祈ったり、聖書朗読をしたり、あかしをしたりすることを禁止しました。救世軍が陸軍省に抗議した結果、陸軍元帥ケンブリッジ公がコルチェスター部隊長に1882年8月25日付で通達を出し、禁止令が撤回され、陸軍兵士が救世軍の室内集会に参加することは許可されるようになりましたが、路傍伝道や街頭行進への参加は禁じられました。

1882年8月、救世軍の伝道新聞『ときのこえ』をアルダーショットの陸軍病院及び兵舎で配布することが許可されました。同年7月にはエジプト駐留英国軍に『ときのこえ』が配布されました。また、英国海軍軍艦アジンコートに乗り組んだ救世軍兵士の水兵らが、アレキサンドリアを出港後、毎晩艦上で伝道集会を行いました。

1894年11月、各国政府の陸海軍兵士に伝道するために、救世軍士官アリス・ルイス少佐が責任者に任命され、1895年9月に最初の「陸海軍人ホーム」がジブラルタル海軍基地工廠の敷地内に開設されました。1階は喫茶室で、毎日2000人に食事を提供し、2階は伝道集会を行う集会室となっていました。1898年までに、「陸海軍人ホーム」がデボンポート、ポーツマス、アルダーショット、横浜、香港、バルバドス島に開設されました。

1899年11月15日、南アフリカのボーア戦争に従軍中の英国軍兵士に奉仕するために、救世軍士官メアリー・マーレー参軍が率いる9人の伝道班がケープタウンに上陸し、現地人の救世軍士官らと合流し、英国陸軍当局の手配で各地の部隊に配置されました。最初のテントを1900年2月12日にナタールの戦場に設置し、コーヒーや食事の提供、伝道集会を行いました。その後、各地の戦場にこうしたテントが設置されました。

1914年、英国の陸軍省と海軍省は公式に救世軍を宗教として認定し、英国軍会議布告第546号として次の布告を行いました。

救世軍の宗教活動の主要な要素である救世軍会館での集会、金管バンドでの演奏及び街頭行進に参加するに際して、英国軍兵士は軍服着用のままでよしとする旨を、英国軍会議は布告し、発効する。

アメリカでは、1898年に米西戦争が始まると、救世軍士官ジョン・ミルサップス参軍に対して、フィリピン派遣軍に従軍牧師として加わるよう要請がなされました。フィリピン派遣米軍司令官ウェスレー・メリット准将の許可により、ミルサップス参軍は米国海軍軍艦ニューポートに乗船して同年5月にフィリピンに入りました。約二年間滞在し、米軍内の救世軍人を主たる対象に、読書室を開設し、信仰書、便箋、インクとペンを提供し、福音伝道集会を毎週行いました。

フィリピンでミルサップス参軍の助手を務めた米軍兵士ハリー・クラインは、除隊後に救世軍士官となって、合衆国政府直轄の各州国防軍(民兵組織)のオマハ連隊に対する従軍牧師となりました。オマハ連隊がフランスへ派遣された時、ハリー・クライン参軍も同行しましたが、彼を正式な従軍牧師として処遇すべきかどうか、陸軍当局内で問題になりました。この問題は米軍法務部総局に照会されました。米軍法務部総局は1917年9月12日付で「救世軍は信条・礼拝・教会組織・教理・戒規・聖職者が整っているキリスト教の一教派である」とする公式見解を示し、米国史上初めて救世軍に確固とした法的立場が与えられました。これにより、救世軍士官に対して米軍の正式な従軍牧師となる資格が認められました。

第一次世界大戦

1914年8月、救世軍士官メアリー・マーレー少佐(後に大佐補)が率いる従軍奉仕班がヨーロッパの西部戦線各地に大型テントを設置して、コーヒーや食事の提供、伝道集会を行いました。同年、救世軍はフランスの西部戦線各地に野戦救急車を派遣し、救世軍兵士が運転する40台が配属されて活動しました。フランス各地の救世軍テントでは毎晩伝道集会が行われ、2万人の英国軍兵士が「恵の座」にひざまずき、回心者となりました。

英連邦諸国の中で、ニュージーランド政府がはじめて救世軍士官を従軍牧師に任命しました。続いて、英国陸軍省が救世軍士官をフランス及びエジプト派遣軍の従軍牧師に任命しました。エジプト派遣豪州軍の従軍牧師であったウイリアム・マッケンジー大尉(後に中佐)は戦功十字勲章を授与されました。メアリー・マーレー大佐補は、南アフリカ戦争章、1914年リボン章、大英帝国勲章を授与されました。

ドーナッツガールの物語

アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、救世軍米国司令官エバンゼリン・ブースは、従軍奉仕班をヨーロッパ戦線に派遣しました。1917年8月、アメリカの救世軍は陸海軍人のために200の休養室、183の簡易宿泊所、70の宿泊所、35の野戦病院を手始めに設置しました。やがて、救世軍の女性士官が塹壕の中でアメリカ兵に揚げたてのドーナツを配り始めました。それ以来、救世軍のドーナッツは、アメリカ兵に対する愛の心遣いを象徴するシンボルとなりました。

1917年に米第1師団で奉仕するために、年若い救世軍士官ヘレン・パーヴィアンス監軍がフランスに派遣されました。インディアナ州出身のヘレンは、マーガレット・シェルドン監軍と共に、小麦粉を練って生地を作り、ワイン瓶を麺棒代わりに使ってドーナツを作りました。ドーナッツを揚げるのには、ダルマストーブを使いましたが、傾いていて、弱火にするのが難しかったので、ヘレンはストーブの前にいつもひざまずいて調整しなければなりませんでした。ヘレンは当時をこう回想しています。「小さなフライパンで七つのドーナッツをいっぺんに揚げようとしました。お腹をすかせて待っている兵隊たちに、なんとかしてドーナッツを食べさせたいと、祈るような気持ちでした」

ドーナツを揚げる香ばしいにおいにひかれて、救世軍の小屋の前にはすぐ兵隊たちの長い行列が出来ました。泥と雨の中に立って、兵隊たちは根気強く待ち続けました。「娘さん」たちは夜遅くまで働きましたが、一日目には150個だけ作って、配ることが出来ました。翌日、その数は二倍になりました。ドーナッツを作る材料と道具と手順がすべて整った時には、毎日2500個から9000個のドーナッツを揚げることが出来るようになり、フランス戦線の各地に同じような救世軍のドーナッツ小屋が作られて行きました。数人の兵士が「穴の開いたドーナッツが食べたいんだけどなあ」とつぶやいたので、パーヴィアンス監軍は、年老いたフランスの鍛冶屋に頼んで、コンデンスミルクの蓋を利用して、即席のドーナツ・カッターを作らせました。他にベーキングパウダーの蓋や、コーヒーろ過器の蓋を使って、穴あけ器の代用にしました。

ドーナッツだけではなく、アップルパイや他の焼き菓子を配っても、兵隊たちは救世軍の女性士官を「ドーナッツガール」と呼ぶようになりました。単純なドーナッツが、最前線で戦う兵隊たちの苦しみを和らげようとする救世軍の働きを象徴するシンボルとなりました。救世軍は塹壕の中で、水筒と飲料水、無料の軽食、伝道集会、コンサート、軍服の修理、手紙の代筆、写真の撮影と家族への郵送など、さまざまなサービスを提供しました。

米兵にコーヒーとドーナツを給仕する救世軍の従軍奉仕班

救世軍のドーナッツを食べたのは、アメリカ兵や英国兵、オーストラリア兵、カナダ兵、ニュージーランド兵だけではありませんでした。ある夜のこと、クリスマス休戦が塹壕内の兵士たちに通知されました。沈黙が破られ、おしゃべりが聞こえ始めました。灯火管制が解かれ、塹壕のあちらでも、こちらでも、火がともされました。闇の中に点々と光る炎は、まるでクリスマスのキャンドルのようでした。白旗を掲げた将校が塹壕を出ました。一緒に、救世軍の女性士官が、揚げたてのドーナッツと熱いコーヒーをお盆に載せて、出て来ました。二人はドイツ軍の陣地に向かって歩き、最前線を越えて、反対側の塹壕の中に入って行きました。将校はドイツ語でドイツ兵たちにクリスマスの挨拶を送りました。救世軍の女性士官は、ドイツ兵たちにドーナッツとコーヒーを配り、クリスマス休戦を共に喜び合いました。

第一次大戦が終結し、パリのノートルダム大聖堂で戦勝記念式典が開催されたとき、救世軍米国司令官エバンゼリン・ブースが招待されました。フォッシュ元帥、パーシング大将、ヘイグ候がエバンゼリン・ブースを出迎え、四人は一緒に大聖堂の中へと入場しました。

救世軍ドーナッツのレシピ

材料(15個から20個分)
小麦粉 4カップ
塩 小さじ1と2分の1杯
バター 小さじ2分の1杯以上
ベーキングパウダー 小さじ4杯
砂糖 1カップ
牛乳 1カップ
卵 1個
シナモン 適量
グラニュー糖 少々

作り方
1.小麦粉をボウルに入れ、塩、ベーキングパウダー、砂糖を加える。
2.バターを入れて、指で混ぜる。
3.良く溶いた卵と牛乳を加えて、混ぜる。
4.打ち粉をした板の上で6ミリ位の厚さに伸ばし、型を抜き、油で揚げる。
5.油を切ったら、シナモンを混ぜたグラニュー糖を上から振りかける。

※バターが少ないのは、戦場でバターが貴重だったことを反映しています。

第二次世界大戦

英国の救世軍の陸海軍人伝道は、第二次世界大戦直前までに、英国内だけで400か所のレッドシールドクラブ(陸海軍人クラブ)と、200台の移動式給食車両を展開するまでになっていました。救世軍のキャンティーンカー(移動式給食車両)は、空襲や災害発生現場に直ちに出動して、被災者や救助作業員、復旧作業員に紅茶と軽食を提供しました。あまりにも早く到着するので、ある爆発事故現場の作業員は、「おまえさんは爆弾と一緒に降って来たのかい?」と、救世軍の運転手に冗談を言うほどでした。

アメリカでは、1940年9月にスチムソン国務長官が、救世軍米国東部軍国のジョン・J・アラン大佐をワシントンの従軍牧師総監補佐に任命しました。アラン大佐は第一次世界大戦において米国第77師団に大佐補の階級で従軍してゲール十字勲章を授与されており、従軍牧師として大佐補の階級を保持することが許されました。

救世軍はルーズベルト大統領に提案して、救世軍、YMCA、YWCA、全米カトリックコミュニティサービス、全米ユダヤ人福祉委員会、旅行者援助協会の民間六団体の共同出資による非営利の軍人奉仕組織「ユナイテッド・サービス・オーガニゼーション」(USO)を1941年2月4日に設立しました。世界各地のアメリカ軍に対してUSOが従軍奉仕と従軍牧師を提供しましたが、その中で、救世軍は独自の活動をすることが出来ました。USOは、その最盛期には、1万人の有給の職員と、60万人の無給のボランティアが従事していました。

1941年12月7日(日本時間では8日)に真珠湾が攻撃されたとき、ハワイのラジオ局が空襲を告げる前から、現場に居合わせた救世軍のトラックは、臨時の野戦救急車として負傷者の輸送を開始していました。

カナダの救世軍の陸海軍人伝道には、139人の救世軍士官と約1000人の職員が国内で専従し、カナダ海外派遣軍に対しては約2000人が従事していました。世界各地のカナダ派遣軍すべてにレッドシールドクラブ担当の救世軍士官が同行し、ノルマンディー上陸作戦にも参加しました。大戦終結後は、本国への帰還の順番待ちをするカナダ軍将兵のために、英国各地にカナダ救世軍のレッドシールドクラブが設置されました。将兵の中には戦地で恋愛結婚した者が多くあり、これらの「戦争花嫁」がカナダに到着した際には、救世軍人が出迎えて、カナダ人である夫の生まれ故郷まで案内しました。不幸にも結婚生活が破綻してしまった場合には、年若い「戦争花嫁」が自立して生活するか、母国へ無事戻れるまで、救世軍が経済的支援を行いました。

オーストラリアの救世軍の陸海軍人伝道は、第一次世界大戦に始まりました。ウイリアム・マッケンジー中佐が1914年8月に豪州帝国遠征軍第4大隊の従軍牧師に任命されて以来、歴代の救世軍士官がその職務を引き継ぎました。シリヤ、シンガポール、北アフリカ、ギリシャ、クレタ島、パレスチナ、エジプト、南太平洋諸島など、世界各地のオーストラリア派遣軍にレッドシールドクラブが設置されました。

救世軍士官アーサー・マキルヴィーン中佐は、豪州第2/9師団の従軍牧師として、北アフリカでのトブルク包囲戦に五か月間従軍しました。中佐が軍人伝道に使用した蓄音機と78回転レコードのコレクションは、「豪州第2/9師団の秘密兵器」と呼ばれて親しまれ、現在はキャンベラの国立戦争記念館に収蔵されています。

救世軍士官ウイリアム・ブラムウェル・ティッブス中校は、豪州第24旅団第9師団の従軍牧師として、北アフリカでのエルアラメインの戦いに従軍しました。慰問物資を満載したトラックを運転して戦闘地域に突入し、帰路は負傷兵を乗せて戻ったことにより、大英帝国勲章を受けました。

救世軍が北アフリカ戦線、イタリア戦線、ノルマンディー上陸作戦で使用した従軍奉仕用車両は、重さが6トンあり、30馬力のエンジンを搭載し、特殊な防弾車体で、4600食の食事を配給する能力がありました。標準装備として図書室、ラジオ、レコード、映写機を搭載していました。また、負傷者を運ぶ担架を車体に固定する棚も付いていました。

第10代救世軍大将(1974-77)だったクラレンス・ワイズマンは、1939年当時、中校としてカナダのモントリオール・シタデル小隊(教会)の小隊長(牧師)でしたが、カナダ陸軍の従軍牧師として軍務に就き、王立カナダ第2工兵大隊に配属され、四年間を英国で過ごしました。 第12代救世軍大将(1981-86)だったジャール・ウァールストロムは、第二次大戦当時、枢軸国側のフィンランド陸軍の従軍牧師として軍務に就きました。

戦場で紅茶を給仕する救世軍のキャンティーンカー(移動給食車)

中立国の救世軍

第二次世界大戦が始まると、世界は連合国側、枢軸国側、中立国側の三つに引き裂かれました。救世軍は「世界的に一体の団体」として、国際主義を貫こうとしましたが、枢軸国側の国々や、枢軸国側に占領された国々では、救世軍の働きは抑圧されたり、禁止されたり、解散させられたり、また、万国本営との関係を断って、別の団体に改組させられたりしました。

中立国であったスウェーデンとスイスの救世軍は、万国本営との関係が断たれた枢軸国及び被占領国の救世軍に対して、必要な資金を送金し続けるという、重要な役割を果たしました。

特にスウェーデンの救世軍は、枢軸国側からの疑念を払拭するために、スウェーデンの救世軍自身も万国本営との関係をわざわざ絶つことまでしました。スウェーデンの救世軍は中国に資金を送り、スイスの救世軍は欧州の救世軍に資金を送りました。スイスの救世軍が政府から送金を禁止されてからは、スウェーデンの救世軍は、ベルギー、チェコスロヴァキア、フィンランド、フランス、ドイツ、仏領ギアナ、香港、ハンガリー、フィリピンの救世軍に資金を送り続けました。

1943年9月10日にスウェーデンの救世軍は、終戦が近いことを予見して、戦後の難民救済事業の準備に着手しました。この事業に志願した 200人のスウェーデン人救世軍士官から、100人が選抜されて、難民救済事業に従事するための訓練が行われました。この中から 6名が、1945年3月初めにロンドンから派遣された第一次難民救済チームに加わりました。それ以外の救世軍士官はノルウェーやバルト海沿岸諸国で難民救済事業に従事しました。

また、スウェーデンで奉仕していたデンマーク人救世軍士官カール・ニールセン大佐の指揮により、ユダヤ人難民を支援する組織が設立され、ユダヤ人難民を夜陰にまぎれて海峡を渡らせ、デンマークからスウェーデンへと脱出させました。

被占領国の救世軍

ドイツ占領下の北フランスでは、救世軍の集会、出版物、制服は禁止されました。傀儡政権のヴィシー政府が支配する南フランスでは、救世軍の活動は続けられました。

北フランスでは、救世軍が運営していた社会福祉施設はすべて、フランス改革派教会連盟に接収されましたが、連盟総裁の好意により、接収後の施設では救世軍式の集会を行うことが許されました(救世軍歌、証言、恵の座の使用など)。

連合軍が北アフリカに上陸すると、ドイツは全フランスを占領下に置き、1943年1月にフランス全土の救世軍に対して清算命令が出され、救世軍の財産は政府に接収されることになりました。

1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸すると、ドイツ軍はパリからの撤収準備に入り、連合軍がパリ解放のため接近する中、救世軍は毎日5000人分の食事をパリ市民に配給しました。

日本占領下の華北では、1941年1月に日本軍憲兵隊によって救世軍のすべての資産が凍結され、北京の救世軍本営は憲兵隊の監視下に置かれました。北京には米国、英国、カナダ、豪州、ニュージーランド、ドイツ、スイス、フィンランド、デンマークから救世軍士官が宣教師として働いていましたが、連合国側の士官は抑留され、枢軸国及び中立国の士官は、そのまま働くことが許可されました。

1941年12月に資産の凍結が解除され、抑留されていた士官も解放され、憲兵隊による監視は中国警察による監視に置き換えられ、救世軍の伝道・教育・社会福祉の活動が再開されました。ただし、外国人士官は北京城内から出ることは許されませんでした。

華北の諸教会によって組織された「華北教会合同協議会」の手により、救世軍のすべての財産は、中国人救世軍士官の管理下に移行され、「中国救世軍」が新たに設立され、北京に本部を設置しました。連合国側の士官は再び抑留され、救世軍北京中央会館は接収されて神道施設に改装されましたが、その他の小隊(教会)や施設では、集会や路傍伝道、医療・教育・社会事業が妨げられることなく行われました。

枢軸国の救世軍

ドイツでは、ナチス(国家社会主義労働者党)が政権を獲得すると、救世軍に対する圧力が強まりました。救世軍の募金活動は禁止され、救世軍の会館で集会中に席上献金を集めることすら禁じられました。しかし「救世軍が集会を行う場合は、入口で入場料を徴収してもよい」とする最高裁判所が1900年に示した判例が見つかり、それを根拠にして収入を得た救世軍の小隊(教会)もありました。大多数の救世軍士官は他の仕事に就き、夕方からの時間と日曜日に伝道活動や集会を行い、働いて得た賃金は救世軍の会館の家賃を支払うために充てました。資金難から閉鎖しなければならない救世軍の小隊(教会)や社会福祉施設もありました。救世軍の伝道新聞『ときのこえ』は、紙不足を理由に印刷を禁止されました。

青少年は「ヒトラーユーゲント」(ナチス青少年団)に加入させられ、十代の青少年のほとんどが日曜学校や礼拝に出席不可能となりました。

1935年に救世軍ドイツ司令官ヨハン・ビュジンク大佐は当局に呼び出され、救世軍の活動について尋問を受けました。救世軍が軍隊用語を使用していることが問題視され、その後も幾度となくビュジング大佐は警察、教会省、内務省に出頭しなければなりませんでした。救世軍が募金活動を禁止されたために、救世軍の社会福祉事業に資金不足が生じ、このためドイツ政府は補助金を交付して補填していました。1936年のベルリンオリンピック開催中だけは、救世軍が街頭募金を行うことが許可されました。ナチスの空軍元帥ヘルマン・ゲーリングから、救世軍の社会福祉施設で食用にするようにと、狩猟の獲物を贈られたこともありましたが、わずかな足しにしかなりませんでした。

救世軍士官に軍隊式の階級名を付けたり、信徒を兵士と呼ぶことが禁止され、司令官は指導者に、救世軍士官は同労者に、兵士は会員に、名称変更されました。救世軍の全財産がナチスに接収されそうになりましたが、救世軍側は、接収を可能とする法的根拠がないことを示して争う姿勢を見せました。これにより、救世軍の伝道事業は継続することが認められましたが、社会福祉事業は各地方政府に接収されることが決まりました。

社会福祉施設の接収の事務を行うために、救世軍司令官ビュジング大佐は各地方政府を回りました。ハンブルクやフライブルクの行政府の役人は、これまでの救世軍の働きに全く満足しており、接収しなければならない合理的理由が見出せない、と言いました。こうして、ベルリンの中央政府の命令に地方政府が従うべきかどうか検討されているうちに、連合軍の空襲と爆撃によって、救世軍の小隊(教会)や社会福祉施設のほとんどが破壊されてしまいました。

そうした困難な状況でしたが、連合軍がドイツに近づきつつある 1944年末に、救世軍ベルリンテンプル小隊(教会)で「青年デー」が開催され、フランス、オランダ、ドイツ各地の救世軍人が集まり、礼拝や集会をしました。ゲシュタポ(ナチス秘密警察)は、これを不快に感じ、ビュジング大佐はゲシュタポ本部に呼び出されて叱責を受けました。

マグデブルクの独身女性の救世軍士官イルゼ・ヒルレ中校は、頻繁にゲシュタポに呼び出され、伝道文書を大人や子どもに配布したなら即刻投獄すると脅されました。ある時は「ドイツ女性であるあなたが、なぜ、イエスのおとぎばなしを信じることができるのか?」と言われました。ヒルレ中校は答えました。「わたしは主の物語を信じています。そんなのはおとぎばなしだと、子どもたちは教えられていますけれど、主の物語が本当であることを、子どもたちが知る日が、やがてやって来ますわ」

ベルリンの救世軍本営は1943年11月の爆撃で半壊していましたが、 1945年2月2日と3日にかけて行われた連合軍の爆撃で完全に破壊されました。ドイツ全土で救世軍の建物が空襲で破壊されました。ソビエト軍が侵攻したプロシア、シレジア、ポメラニアでは、救世軍の全財産が失われ、救世軍人の消息もわからなくなりました。

日本では、1937年7月7日に中国・北京郊外で日本軍と中国軍が交戦状態に入ると、軍隊に召集され、北支戦線に赴く人が増えて来たため、救世軍の各小隊(教会)が出征軍人の家庭を訪問し、救世軍司令官・山室軍平中将の伝道書『平民の福音』を贈って、慰問に努めました。東京・本所の救世軍社会植民館(セッツルメント)は、付設の保育園において出征軍人家庭の保育枠を増設し、保育料を減免し、出征軍人への手紙の代筆を行いました。浅草の救世軍三筋町病院では、出征軍人家族のために入院と外来の医療費扶助を提供しました。

1937年11月には、中国・河北省の石家荘に「救世軍報国茶屋」(レッドシールドクラブ)を設置して、従軍奉仕事業を開始しました。茶屋では紅茶、コーヒー、ビスケット、おしるこを日本軍兵士に提供すると共に、日本各地の新聞を備え付けて閲覧に供し、また、文房具・便箋・バリカン・カミソリなどの日用品、救世軍の伝道新聞『ときのこえ』やトラクトを配布しました。写真撮影をして家族のもとに送るサービスには、一日に30名から40名の利用者がありました。

戦線の拡大と共に、「救世軍報国茶屋」は石家荘から徳州を経て、済南に移動しました。済南では無料の理髪奉仕を始めました。1938年5月には、救世軍病院の歯科医師・浦田大尉が済南に入って歯科治療を開始しました。理髪店も歯科治療も共に、日本軍兵士にも中国人にも利用されました。また、茶屋に卓球台、蓄音機、レコードを設置し、北支戦線の日本軍兵士の間では知らない者のない名所となりました。茶屋に備え付けられたノートブックには、多くの日本軍兵士から次のようなメッセージが書き込まれました。

ありがとうございました。戦地でまさか紅茶を御馳走になろうとは思いませんでした。厚くお礼申し上げます。/弾の中から出て、突然自由の楽園に入り、そのお茶の味、口で味あわず、心の底で味わう。その味、筆談に尽きず。感慨無量。/この地に、この愛の手が待っていようとは思わなかった。

1938年6月には、徐州に「救世軍報国茶屋」を設置しました。このために、東京の自由学園、森永製菓、明治製菓、40の新聞社、25の雑誌社から、大量のビスケット、お菓子類、各種新聞雑誌が寄贈されました。また、ハワイの救世軍ヒロ小隊から大量のコーヒー、砂糖、ミルクが寄贈されました。

1939年4月には、東京の救世軍病院から医師2名と看護婦2名が中国に派遣され、済南城内東華街に「救世軍済南診療所」を開設し、内科・眼科・皮膚科・耳鼻科・外科の診療を中国人を対象に提供しました。診療所には「救世軍日本語講習所」が併設され、台湾出身の救世軍士官・劉大尉が講師となって、現地の官公庁の役人ら50人に日本語を教えました。

「救世軍済南診療所」は、日本軍の部隊司令部からの申し出により、診療所の改装と歯科診療室の増築が行われ、併せて「救世軍報国茶屋」の休憩室・新聞閲覧室・給仕室・倉庫・トイレ・卓球室・事務室・救世軍士官居室が大規模に改装され、その工事費用はすべて日本軍が負担しました。また、救世軍済南中央小隊が設置した難民キャンプの居住者が、旧正月の帰宅を希望したので、「救世軍報国茶屋」の担当者が日本軍の特務機関と交渉し、軍用列車に難民を乗せて黄河を渡らせ、華北へ帰還する支援を行いました。

1940年3月13日に救世軍司令官・山室軍平中将が死去し、その葬儀には天皇、皇后、皇太后の三陛下より葬祭の御下賜金がありましたが、ほどなくして、山室軍平中将のベストセラーの伝道文書『平民の福音』が、当局により紙型を没収され、事実上の発禁処分となりました。葬儀の数ヶ月後には、救世軍の幹部士官全員がスパイ容疑で東京憲兵隊に拘留され、取調べを受けましたが、罪状は認められず、釈放されました。しかし、日本の救世軍と英国ロンドンの万国本営との関係と、軍隊組織、軍隊用語が問題視され、当局の勧告に従って、救世軍は万国本営との関係を絶ち、「日本救世団」と改称しました。

1941年に救世団は「日本基督教団第11部」として、プロテスタント諸教団と共に日本基督教団に合同し、これに伴い、救世軍が運営していた社会福祉事業と医療事業はすべて、新たに設立された「基督教愛隣会」に引き継がれました。基督教愛隣会に対しては太平洋戦争中も継続して、皇室からの御下賜金や政府の補助金が交付されました。中国・済南の「救世軍報国茶屋」は、救世軍が救世団となり、さらに日本基督教団第11部となってからは、名称を「報国茶屋」と変えて、済南の邦人基督教会の支援により、その働きを継続しました。東京・神保町の救世軍本営は大日本産業報国会が使用することとなり、原宿の救世軍士官学校は陸軍に接収されました。やがて、米軍の空襲と爆撃により、救世軍の小隊(教会)や社会福祉施設の大半が破壊されてしまいました。

戦争が終わるとただちに救世軍は、厚生省の委託による引揚事業の事務や、戦災孤児の保護、焼け出されて家がない人々への宿泊所の提供、赤線地帯で売春を行っている女性たちの保護更生事業に着手しました。救世軍士官・山室民子大佐補(山室軍平中将の娘)は、文部省の技官として召致され、毎日救世軍の制服を着用して役所に勤務しました。

軍港であった呉にはオーストラリア軍が占領軍として進駐し、朝鮮戦争が休戦するまで駐留しました。豪州将兵に従軍奉仕を提供するために、オーストラリアの救世軍がキャンティーンカー(移動式給食車両)を持ち込み、海軍潜水学校跡地に置かれた英豪軍兵站部に救世軍の事務所を開設し、呉市広地区の駐屯地にレッドシールドクラブ(陸海軍人クラブ)を設置しました。担当者の救世軍士官グレイ少佐の尽力により、未婚の母を支援するため女性保護施設と保育所が呉市青山に開設されました。救世軍は売春防止法の成立に向けて関係諸団体と共に運動し、救世軍士官・瀬川大佐は法案を審議する国会にたびたび参考人として召致され、意見を求められ、売春防止法の成立に尽力しました。

戦時難民救済事業

ドイツが降伏して戦争が終結すると、ヨーロッパは戦争難民の移動によって大混乱に陥りました。救世軍は戦争終結の何か月も前から戦時難民救済事業の準備を進め、ブラムウェル・エスチル大佐を責任者とする難民救済チームが組織されました。また、英国の各種慈善団体が海外救済委員会(COBSRA)を組織し、救世軍から代表として加わったヒュー・スレイデン中将が、ヨーロッパ救済部門の責任者に任命されました。

救世軍難民救済チームのメンバーは、ヴァイオレット・チャーマー少佐、エルジー・ガントレット少佐、イーゼル・ラング少佐、フローレンス・ミッチェル少佐、グラディス・プロウマン少佐、ミュリエル・ピンニー中校、エンダ・シード大尉、モーリス・ホワイト中校、ジョージ・カーペンター大尉、ジョージ・グレットン大尉、アーネスト・ロビンソン大尉でした。

チームは1945年3月にドーバー海峡を渡り、オランダでの難民救済事業を開始しました。続いて第二陣、第三陣のチームがヨーロッパ大陸に入りました。

オランダでは、一般市民に対する基本的な医療の提供、特に住民に蔓延していた疥癬に対する治療や、砲弾の破片を受けたまま放置された傷の消毒と包帯の取り替えを行いました。また散髪とシラミの除去、石鹸の配布、あたたかいココアの提供を行いました。

救世軍難民救済チームは、ライン川を越えてドイツに入りました。空襲で家を失った人々のために、詳細な計画を立てて難民キャンプを設置しました。難民キャンプでは日課が組まれ、大人と子どものために様々なプログラムが提供されました。幼稚園、学童のための遊戯室、大人の学校、工房が開かれました。工房では、難民がそれぞれ自分の職能を生かして洋服仕立や大工、靴の修繕を行いましたが、原材料を入手するのに苦労しました。男性のための工業学校、女性のための洋裁学校、妊婦と新生児の診療所が開設されました。看護婦たちは難民に対して、予防的な保健衛生の基礎知識の講習会を行いました。

ドイツの市民生活は、ほぼ完全に麻痺状態に陥っており、特にアーヘンとケルンの間にある激戦地ドゥレンは悲惨な状態にありました。崩壊した瓦礫の下に無数の遺体が手付かずで放置され、ガスも電気も水道も復旧の見込みはなく、衛生状態は劣悪で、伝染病のチフスが流行していました。救世軍難民救済チームは移動診療所と難民キャンプを設置しました。

難民救済チームにスウェーデンの救世軍から補充要員6名が加わって、エッセン、ジーゲン、ミュンスターラーガー、ハノーヴァー、ハンブルク、キール、ベルリン、ウィーンにも難民救済事業を展開しました。また、チェコスロヴァキアでは行方不明の児童を捜索しました。

米英軍の占領地域とロシア軍の占領地域が接触するフリートラントでは、100万人以上の難民が、東から西へ、西から東へと大挙して通過中でした。救世軍は、食事と衣料品の配給所を設置し、重病人を近くの病院に搬送しました。また、福音書と救世軍の小隊(教会)の住所を記したカードや、ホットチョコレートを配布しました。

救世軍は日中戦争下の中国でも難民救済事業を行いました。1937年に日本軍と中国軍が小規模の衝突を起こし、両国ともに宣戦布告をしないまま地域紛争が拡大して、実質上の戦争状態に入りました。天津では東駅周辺が空襲で破壊され、数千人が川を越えて脱出して英国人街に殺到し、学校などの建物が難民で溢れかえりました。天津の救世軍の地域担当者ジョージ・ウォーカー少佐は食事、飲料、宿泊を提供する準備をし、外国居留民団が組織した救援委員会の要請により、毎日1万6千食の食事を調理して難民に配給しました。救世軍天津北小隊(教会)のチャン・シュイテン大尉は小隊会館と士官宅を難民の宿泊所として開放しましたが、行政当局が広い建物を救世軍に提供し、毎日2千人に給食を行うことが出来ました。

1939年までに天津において救世軍は四つの難民キャンプを運営し、1万3千人が生活していました。その年に、2千4百人を受け入れる五番目のキャンプが開設され、さらに、7千人を受け入れる三つのキャンプが建設中でした。北京では、市内九か所の救世軍の小隊(教会)と施設で雑穀類であるキビを配給しました。これにより、1万3千人がそれぞれ一人当たり12日分の食料を得ることが出来ました。1939年から1940年にかけて、救世軍は北京で冬期救済事業を行い、五つの男子宿泊所を開設して2万8千人を受け入れ、また、一つの女子宿泊所を開設して、約4千人を受け入れました。

上海では1937年秋の日本軍の攻撃により、わずか一晩で4千人の難民が発生しました。1937年冬から1939年9月まで、救世軍は合計7万3千人の難民に対して、1千9百万食の食事を提供し、20万人を診療所で治療しました。

良心的兵役拒否についての救世軍の見解─1992年、イギリス

軍隊において武器を取ることに関して、個人がキリスト教信条あるいは他の個人的信条に基づき、自分自身の決断を下す権利が与えられていることを救世軍は尊重し、個人の決断に影響を与えることを避けます。救世軍はどのような判断を下した人にも、全面的な霊的な奉仕を提供します。

正しく制定された市民権の尊重に関する聖書の教えに基づいて、救世軍は兵役を拒否する人に対して、代わりの奉仕となる法的手段を取るように助言します。

救世軍は、いかなる状況においても、真摯な良心的兵役拒否者を軽蔑視することはありません。軽蔑の姿勢を取ることは、人類が平和に共生することを学ぶに不可欠な力を持つ主イエス・キリストの愛を否定することだと捉えているからです。

世界平和についての救世軍の見解─1990年、カナダ

普遍的キリスト教会の一派として、救世軍はイエス・キリストが宣教した平和の設立を求めます。救世軍は、世界の諸問題が武力によって解決するものではなく、支配欲と結びついた強欲や高慢が、人の魂を毒し、争いの種を撒くものと認識します。

核兵器が、考えるにも恐ろしいほどの破壊力を持っているがゆえに、救世軍は、すべての国家による核兵器廃絶が、世界平和に必要な要素だと信じます。しかしながら、国家は、他国からの侵略に対して自衛する権利を持ちます。

救世軍は、巨額の資金が世界全体の社会経済の成長のために投資されるのではなく、大量殺戮のための恐ろしい兵器の著しい生産を助長するために投資されていることに、深く憂慮しています。軍縮、平和、そして経済的発展には、切っても切れない関係があるのです。

救世軍は、救世軍という組織が平和のために祈り働くこと、また、教会が真実の平和の源である神ご自身の証人として復興するように求めていくことを、救世軍に属する人々に対して誓います。

イラク情勢についての救世軍の声明─2003年1月、イギリス

英国及びアイルランドの救世軍は、イラク情勢について深刻に憂慮し、また、関係する団体すべてと同様、戦争は常に最後の選択肢であるべきだと考えます。救世軍はまた、二つの避け難い選択肢のうち、戦争を行うことがやむをえないという場合も存在することを認めます。しかし、現在の危機的状況に際して、救世軍は、世界の指導者が平和的な解決のために力を尽くすことを要請いたします。

世界109か国で活動する国際的組織である救世軍は、イラクで起きるかもしれない戦争についての緊張や感情を、よく知ることが出来る状況に置かれています。英国の救世軍人は、いかなる戦争も「イスラムに対する戦争」となってはならないと呼びかけるために、行動や声明がなされることを奨励します。英国におけるイスラム教徒の地域社会や、イスラム諸国における少数派のキリスト教徒が、過激論者によって報復の標的にされる恐れが現実に存在します。こうしたことが決して起きないよう、強力な政治的指導力が要請されています。

怒りの状態においては、しかるべき手続きに沿って物事が進められることが、非常に重要であり、救世軍は、すべての世界の指導者が国連の場を通じて行動するよう要請します。もし、最終的に外交的努力が失敗に終わり、イラクの大量破壊兵器の保有に対する疑惑の証拠が示された場合には、国連が必要な軍事行動に対して承認を与えるよう要望します。

すべての戦争は、それ自体が恐るべき破壊的出来事であり、多くの場合、最も罪のない人々がその犠牲者となります。イラクで戦争が起きた場合には、救世軍は、双方の陣営が罪のない人々を確実に保護するために、あらゆる手段を取るよう要望するものです。イラク国民が助けを必要としていることは明白であり、現在のイラクの体制の圧倒的な物資の欠乏について看過するわけではありませんが、外国からの支援に先だって、一般市民の生命を危険にさらすだけである空爆が行われることがあってはなりません。

救世軍は、いまこのときに世界の指導者が直面している意志決定の重大性を思い、すべての救世軍人、クリスチャン、宗教者に対して、これからの数か月、世界の指導者のために祈りをささげることを呼びかけるものです。

出典:
The History of The Salvation Army, vol.v&vi.
The Salvation Army Year Book 2003.
Salvationist,8 Feb.2003, No.872.
Born to Battle, The Salvation Army in America.
『支那事変と救世軍─救世軍事業報告』1939年。
『神の国をめざして②─日本救世軍の歴史 1927-1946』1992年。
http://www.worldwar1.com/dbc/doughnut.htm

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