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無力さが無力さであるその極みにおいて、何が起きるか? っていう話です。

神はいるか・いないか、という議論になると、いない派がよく持ち出すのが「全能のパラドックス」という問いだ。

どういうのかというと、全能者は自分が持ち上げられない石を創造できるか? という問いなんだけれど。。。

その答えが「はい」なら

全能者は自分が持ち上げられない石を創造した
 ↓ 
全能者はその石を持ち上げられない
 ↓
石を持ち上げられないから全能者ではない
 ↓
ゆえに全能者ではない


。。。ということになるんだ。

逆に、答えが「いいえ」なら

全能者は自分が持ち上げられない石を創造できない
 ↓
創造できないから全能者ではない
 ↓
ゆえに全能者ではない


。。。ということに。

つまり、この問いは、どう答えたって全能者は全能者でないという結論にしかならないのだ。

こうして、聖書が言うみたいな全能の神は存在しない、いや、存在できない、ということになる。

今日の聖書の言葉。

かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 
フィリピの信徒への手紙 2:7-8 新共同訳

しかし、聖書はだれも予想しなかったような禁じ手を使って来る。

それが今日の聖書の言葉なんだけど。。。

どいうのかというと、全能者は全能者自身を無にした、って言うんだよね。

全能者は全能の力を使って全能者自身を無力なものとした。それがイエスだ。

無力であるわけだから、悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)を歩いたイエスは十字架の重さに耐えかねて転倒し、そばを通りかかったキレネ人シモンが代わりに十字架を運ぶことになった。

十字架を運べないイエス。たしかに無力だ。。。

それだけじゃあない。イエスは無抵抗のまま暴力にさらされ、辱めを受け、十字架につけられ、殺された。死んでしまったのだ。

無力の無力たるゆえんはいろいろあるけれど、無力が無力である最たるものが死だ。

死んでしまったイエス。ほんとのほんとに無力だったのだ。。。

つまり、全能者が全能の力を使って全能者自身を無力なものとした結果として全能者は死んだ、ということになる。

だけれども。。。

全能者は全能者だから、死という徹底的に無力な状態からサクッと復活して、また全能者に戻るんだよね。それが墓に葬られて三日目に復活したイエスだ。

以上のストーリーにより、あの「全能のパラドックス」は棄却されてしまうことになる。

なぜなら、全能者は全能者であることを止めて無力な者となり、無力な者からまた全能者に戻った、って聖書は言うわけだからさ。

こんなのチートだろ、って、いない派は言いそうだけど、でも、まあ、全能者だからね。なんでもできてしまえるわけで。。。

ところで、このストーリーがいったい自分にどんな関係があるのか? ってことを考えなきゃいけない。でないと「だから、なに?」ってことになっちゃうから。

そこで、このストーリーがどう自分に関係するかと言うと。。。

自分はいつも無力さを経験していて、それはどこまで進んで行くかというと、無力が無力である最たるものとしての死という地点まで進んで行くんだ。人間が人間である以上これが既定のコースだよね。

ところが、その無力さの極みにおいて全能者は自分と結合してくれる。

だって、全能者はイエスとなることによって「無力」という属性を得たので、その属性を介して、無力な属性しか持たない自分とバッツリ結合してくれているわけだから。

そして、この先が重要なんだけど。。。

無力となった全能者は復活した。イエスの復活だ。で、そのイエスに自分は結合されているから、イエスの復活にひきずられて自分も復活させられてしまうことになる。

聖書はそのことを言っていて、証拠聖句がこれだ。

神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 6:14 新共同訳

もうひとつだけ。

わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
ローマの信徒への手紙 6:5 新共同訳

じゃあ、そんなふうにイエスに結ばれて復活させてもらえる「資格」は、なんなのか? と言うと。。。

それは、徹底的に無力であること、っていうことになる。

なぜなら、全能者は無力という属性において自分と結合していてくれるんだから。

なので、はぁーっ、オレって無力、って今日ため息をつくことは、じつは、とっても良いことだ、っていうことになるんだ。

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